3行でわかる見沼の竜伝説
- 江戸時代まで、さいたま市東部の見沼には竜神がすむと信じられ、干拓に来た井沢弥惣兵衛のもとへ美女に化けた竜神が「工事を待ってほしい」と頼みに来たという伝説が残っています
- 史実では、享保12年(1727)9月に着工した見沼代用水が翌年2月に完成し、沼は約1,200haの田んぼに生まれ変わりました
- 工事が終わると竜は印旛沼へ去った、氷川女體神社の池に移ったなど、結末は村ごとに違います
- 伝説の舞台は大宮区・見沼区・緑区に今もあり、国昌寺の「開かずの門」の竜の彫刻など、実際に見に行けるものもあります
見沼に竜はいたのか。答えは「江戸時代の人々にとっては、確かにいた」です。見沼田んぼが広がる一帯は、かつて芝川の流れをせき止めた巨大な沼でした。その沼を田んぼに変える大工事が始まったとき、すみかを奪われる竜神が工事の責任者の前に現れた――そんな話が、いまのさいたま市から川口市にかけての村々で語り継がれてきました。
面白いのは、伝説が史実とぴったり重なっていることです。竜神が訪ねたとされる寺は、実際に工事の詰め所だった場所。竜が去った年は、用水が完成した年。この記事では、伝説のあらすじと史実の年表を並べて読み、最後に今も見られるゆかりの地を紹介します。

見沼はどんな沼だった?なぜ竜がすむと考えられたの?
見沼のあたりは、縄文時代に海が内陸まで入り込んでいた頃は入り江で、海が引いたあとに沼地として残った土地です。台地のあいだに細長く入り組んだ形をしていて、その姿そのものが竜にたとえられてきました。
沼の周りの人々にとって、水は田を潤す恵みであると同時に、あふれれば田畑をのみ込む脅威でもありました。台地の上に建つ氷川女體神社(緑区宮本)では、沼に神輿を渡す「御船祭」が古くから行われていたと市の文化財解説にあります。水の神をまつり、鎮める。竜神信仰はこうした暮らしの中から自然に生まれたものでしょう。
江戸時代に入ると、寛永6年(1629)に関東郡代の伊奈忠治が「八丁堤」と呼ばれる堤を築いて流れをせき止め、見沼は約1,200haのため池「見沼溜井」になりました。ところが、水害に悩む村々からは、溜井をやめてほしいと訴える声も上がっていました。
竜神は井沢弥惣兵衛に何を頼んだの?
舞台は8代将軍・徳川吉宗の時代です。紀州から呼ばれた井沢弥惣兵衛為永が見沼の干拓を命じられ、現在の大宮区天沼町にある大日堂に泊まって準備を進めていました。
ある夜、そこへ美しい女性が訪ねてきます。女性は自分が見沼の竜神だと名乗り、「干拓されると沼に住めなくなる。新しいすみかを見つけるまで、工事を待ってほしい」と頼みました。弥惣兵衛はこれを聞き入れず、工事に取りかかります。
すると災難が続いて工事は進まず、弥惣兵衛自身も病に倒れてしまいました。女性はふたたび現れ、病を治すかわりに願いを聞いてほしいと言い、それから毎晩やって来ては明け方に消えるようになります。不思議なことに、弥惣兵衛の病はみるみる回復していきました。
ところがある晩、様子をうかがった人が見たのは、眠る弥惣兵衛の体をなめ回す蛇の姿をした女でした。話を聞いて恐ろしくなった弥惣兵衛は、詰め所を見沼区片柳の萬年寺へ移します。その後は工事が順調に進んだものの、萬年寺で村人の葬儀をした際、棺が山門をくぐったとたんに黒雲が広がり、風が棺を持ち去ったという怪事も語られています。享保13年(1728)に工事が終わり、弥惣兵衛が寺を去ると、怪しい出来事はぴたりとやんだそうです。
同じ話でも結末はいくつもある
待ってほしいと頼んだ日数が「99日」「90日」と語り手によって違ったり、弥惣兵衛が住みかを失う竜神をあわれんで萬年寺に灯明をかかげ「竜神灯」と名づけて慰めた、という穏やかな結末もあります。昔話は村ごとに少しずつ形を変えて伝わるので、どれが正しいというより、違いを楽しむのがおすすめです。
井沢弥惣兵衛は実際に何をした人?
伝説では竜に振り回される弥惣兵衛ですが、実像は当代きっての土木技術者です。紀伊国の溝ノ口村(現在の和歌山県海南市)の出身で、紀州藩で紀の川流域の新田開発に成功した実績を買われ、将軍になった吉宗に呼ばれて江戸へ来ました。
埼玉県の資料によると、見沼代用水の工事は享保12年(1727)9月に始まり、翌13年2月に完成しています。稲刈りが終わってから次の田植えまでの、田に水がいらない時期のおよそ半年で仕上げたわけです。利根川から水を取り入れ、約60kmの水路で八丁堤まで水を運ぶ大工事で、途中では元荒川の川底を「伏越」でくぐり、綾瀬川を「掛樋」という水路橋で越えるといった工夫が重ねられました。
「代用水」とは、見沼溜井に代わる用水という意味です。水源を利根川に移したことで溜井は不要になり、八丁堤を切って水を抜いた跡は約1,200haの新しい田んぼに変わりました。沼の真ん中には排水路が掘られ、埼玉県はこれを今の芝川の始まりと説明しています。さらに享保16年(1731)には、用水と芝川の約3mの水位差を閘門で調整して舟を通す「見沼通船堀」も造られました。
こうして並べると、竜神の話が生まれた理由も見えてきます。何百年も続いた沼が、たった半年の工事で消えてしまう。水の神への畏れ、暮らしが変わる不安、それでも工事をやり遂げた弥惣兵衛への驚き。その全部が、「美女に化けた竜神」という物語に込められているように読めます。
すみかを失った竜はどこへ行ったの?
伝説の続きで最もよく語られるのは、竜が千葉の印旛沼へ引っ越したという話です。川口市の差間に伝わる話では、人力車の車夫が千葉方面へ美しい女性を乗せて走ったところ、印旛沼の近くで女性がふっと消え、座席がぐっしょり濡れていたといいます。村人たちは、見沼を追われた大蛇が女性に化けて印旛沼へ移ったのだと考えました。
反対に、竜が見沼へ「里帰り」する話もあります。千住のあたりで美しい女性を馬に乗せて見沼まで送った農夫が、お礼の包みを開けてみると、中には蛇のうろこが2枚入っていた、というものです。
竜神は氷川女體神社の池に移ったという話もあります。干拓で沼へ神輿を渡す御船祭ができなくなった神社は、鳥居の下に土の壇と池を設けて祭りの場とし、享保14年(1729)に「磐船祭」として祭りを復活させました。この祭祀の跡は「氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡」として市の史跡に指定されています。磐船祭そのものも江戸時代の終わりとともに途絶えましたが、跡地は今も神社の近くに残っています。干拓によって沼を失った人々が、それでも水の神をまつり続けた跡と見ると、伝説が急に身近に感じられるはずです。
国昌寺の「開かずの門」はなぜ閉じられているの?
緑区大崎の国昌寺には、江戸時代中頃に建てられた山門があり、市の有形文化財に指定されています。この門の欄間に彫られているのが、名工・左甚五郎の作と伝えられる竜です。
寺の縁起として紹介されている伝説では、見沼にすむ竜が作物を荒らして困っていたため、日光から帰る途中の左甚五郎に竜を彫ってもらい、門に釘づけにして封じ込めたといいます。棺がこの門をくぐると軽くなる――竜が中身を食べてしまうからだ。そう恐れられて門は閉ざされ、「開かずの門」と呼ばれるようになりました。
ちなみに、左甚五郎作と伝わる竜の彫刻は全国の寺社にあり、夜な夜な抜け出して暴れたという話もあちこちに残っています。それでも、見沼という大きな沼のすぐそばで、竜を「動けないように釘で留めた」という筋書きになっているのは、この土地ならでは。緑区大門の大門神社にある愛宕社にも、同じく釘づけにされた竜の話が伝わっています。
伝説ゆかりの地はどこにある?今は何が見られる?
伝説の舞台は、ほとんどが実在する寺社として残っています。見に行く前に、どこで何が見られるかをまとめました。
| 場所 | 所在地 | 伝説とのつながり | いま見られるもの |
|---|---|---|---|
| 大日堂 | 大宮区天沼町1丁目 | 弥惣兵衛の最初の詰め所。竜神の化身が訪ねてきた場所 | 建治2年(1276)銘の板石塔婆(市指定文化財) |
| 萬年寺 | 見沼区片柳 | 弥惣兵衛が移った詰め所。棺が風に持ち去られた話、竜神灯の話 | 弥惣兵衛の業績をたたえる碑。寺の周りには斜面林と田んぼの里山の景色 |
| 国昌寺 | 緑区大崎 | 開かずの門、釘づけの竜 | 江戸時代中頃の山門と、欄間の竜の彫刻(伝左甚五郎作) |
| 氷川女體神社 | 緑区宮本 | 竜神が移ったという池、御船祭と磐船祭 | 磐船祭祭祀遺跡(市指定史跡)、見沼の竜神をまつる境内の竜神社 |
| 見沼自然公園 | 緑区 | 伝説の主人公・弥惣兵衛 | 井沢弥惣兵衛の銅像。かつて沼だった場所に広がる公園 |
| 東浦和駅前 | 緑区 | 見沼の竜神そのもの | 駅前ロータリーに置かれた見沼の竜神の像 |
回るなら、緑区側(東浦和駅、氷川女體神社、見沼自然公園、国昌寺)と、大宮・見沼区側(大日堂、萬年寺)に分けると無理がありません。国昌寺へは、浦和駅東口または東浦和駅から「さいたま東営業所」行きのバスで「総持院」下車、徒歩10分ほどと、さいたま市の観光サイト(さいたま観光国際協会)で案内されています。用水と芝川をつなぐ閘門式の運河「見沼通船堀」(国指定史跡)も東浦和駅の近くにあるので、緑区側を回るときにあわせて見ておくと、弥惣兵衛の仕事の大きさが実感できます。
見学の注意 どこも地域の人がお参りする信仰の場です。国昌寺は拝観時間の決まりはないものの夜間は避けるよう案内されています。萬年寺・大日堂を含め、境内では静かに見学し、法要や行事の最中は立ち入りを控えましょう。
いまの見沼田んぼに竜の面影は残っている?
沼は消えましたが、生まれた田んぼは今も残っています。見沼田圃は約1,257haにおよぶ緑地で、国土交通省関東地方整備局は首都近郊に残る数少ない自然空間として紹介しています。見沼代用水の土手には桜が帯のように続き、春には水路沿いの桜並木を歩く人でにぎわいます。
竜そのものも、姿を変えて現役です。さいたま市のPRキャラクター「つなが竜ヌゥ」は、見沼田んぼの竜神さまの子孫という設定で、2007年に市報の漫画の主人公としてデビューしました。宝物は「ご先祖さまのウロコ」。見沼から印旛沼へ去った竜が、うろこを残して里帰りする昔話を知っていると、この設定がぐっと味わい深くなります。
見沼代用水の水は、いまも利根大堰から取り入れられ、埼玉県東部の田を潤しています。春、代用水の桜並木を歩くときは、足もとを流れる水が、かつて竜のすみかを田んぼに変えた水だと思い出してみてください。
参考資料
- 埼玉県「見沼代用水」(PDF)/埼玉県「見沼代用水の歴史を知る」
- 埼玉県「芝川改修の歴史」
- さいたま市「文化財紹介 國昌寺門」/「氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡」/「大日堂板石塔婆」
- さいたま市観光サイト「国昌寺」
- さいたま市「つなが竜ヌゥ」
- 国土交通省関東地方整備局「関東の富士見百景 見沼田圃」
- 農林水産省「見沼代用水を築いた井澤弥惣兵衛為永」
- 伝承の出典:『大宮市史』第5巻(1969年)、『浦和市史』民俗編(1980年)、『川口市史』民俗編(1980年)、常光徹「見沼の竜神」(『日本伝説大系』第5巻、1986年)


