所沢が「航空発祥の地」と呼ばれるのは、1911年(明治44年)4月1日、日本で最初の飛行場「所沢飛行場」がここに開かれ、4日後に日本の飛行場で初めての飛行が行われたからです。日本で最初の動力飛行そのものは前年の代々木ですが、飛行機が日常的に飛び立つ専用の基地は所沢から始まりました。跡地はいまの所沢航空記念公園で、最初の滑走路の跡を歩くことができます。
西武新宿線の航空公園駅を東口に出ると、駅前広場にプロペラ旅客機のYS-11が置かれています。所沢の人には見慣れた風景ですが、初めて降りた人は「なぜここに飛行機が?」と思うはずです。その答えは115年前、駅の目の前の土地に日本初の飛行場がつくられたことにあります。
2026年10月16日には、休館中の所沢航空発祥記念館が2027年5月1日(土)にリニューアルオープンすると埼玉県が発表しました。再開を前に、所沢が「発祥の地」と呼ばれる理由と、いまも公園に残る飛行場の痕跡をたどります。

日本初の飛行は代々木なのに、なぜ所沢が「発祥の地」?
意外に知られていませんが、日本で最初にエンジン付きの飛行機が空を飛んだのは所沢ではありません。1910年(明治43年)12月、東京の代々木練兵場(いまの代々木公園)で、日野熊蔵大尉と徳川好敏大尉が、それぞれヨーロッパから持ち帰った機体で飛んだのが最初です。代々木公園にはいまも、その飛行を記念する碑が立っています。
それでも所沢が「発祥の地」と呼ばれるのは、日本で初めて「飛行機のための土地」として整えられた場所だからです。練兵場はもともと兵隊が訓練するための広場で、飛行機はそこを借りて飛んだにすぎません。翌1911年4月1日に開かれた所沢飛行場は、滑走路と格納庫、気象観測所をそなえた、飛行機専用の施設でした。代々木が「最初に飛んだ場所」なら、所沢は「飛行機が毎日飛ぶようになった最初の場所」。二つの「初」は、意味が違うのです。
1911年4月5日の朝、所沢で何が飛んだ?
開設から4日後の4月5日早朝、徳川大尉が操縦するフランス製の複葉機「アンリ・ファルマン機」が、所沢の滑走路から飛び立ちました。記録は高度10メートル、距離800メートル、飛行時間1分20秒。高度10メートルは3階建ての建物の屋根ほどの高さです。
おもしろいのは、このとき滑走路の長さが400メートルしかなかったことです。幅50メートル・長さ400メートルの1本きりの滑走路から、その2倍の距離を飛んだことになります。格納庫と気象観測所、燃料の倉庫が並ぶだけの、いまの空港とは比べものにならない小さな施設から、日本の航空の歴史が動き出しました。
なぜ東京ではなく所沢が選ばれたの?
飛行場をつくったのは、陸軍などが1909年に立ち上げた「臨時軍用気球研究会」です。名前のとおり、当時の軍は偵察に気球を使っていて、飛行機はまだ研究の対象でした。研究会の最初の仕事の一つが飛行場の場所選びで、首都に近いいくつかの候補地のなかから所沢が選ばれました。
決め手として挙げられているのは、起伏が少なく平らな土地であること、雷が少ないこと、そして当時気球隊がいた東京・中野から鉄道で行き来しやすかったことです。武蔵野台地の平らさは、畑を広げるのにも向いていましたが、木と布でできた初期の飛行機が離着陸するにもうってつけでした。
飛行場ができてから、所沢では何が起きた?
同じ1911年の10月13日、所沢では本格的な国産飛行機「会式一号機」が初飛行に成功します。ファルマン機を手本に徳川大尉が改良を加えて設計した、日本で最初の国産軍用機です。正式名は「臨時軍用気球研究会式一号機」。名前に「飛行機」の文字が入っていないところに、気球が中心だった当時の空気がよく表れています。
1913年(大正2年)3月28日には悲しい出来事もありました。東京の青山練兵場での観覧飛行を終えて所沢へ戻る途中、機体が突風を受けて墜落し、木村鈴四郎中尉と徳田金一中尉が亡くなりました。国内で最初の飛行機事故の犠牲者です。墜落した所沢市下新井の付近には、いまも二人の殉職の碑が立っています。
1919年(大正8年)にはフランスから航空教育団が来日し、団長のフォール大佐のもとで本格的な訓練が始まりました。同じころ日本で最初の航空教育機関も所沢に置かれます。飛行場で働く人や学ぶ人が集まり、町の人口は大きく増えました。所沢の町の成長は、飛行場とともにあったといえます。
飛行場はどうして公園になったの?
1945年の終戦後、飛行場は米軍に接収されて基地になりました。市の中心に広い基地がある状態が続き、市民の返還運動を経て、1971年(昭和46年)に約6割が返還されます。その後の返還と合わせて、いまでは約7割が日本に戻っています。返還された土地には学校や病院、官公庁が建ち、その中心に1978年(昭和53年)、県営の所沢航空記念公園が一部開園しました。1987年には航空公園駅が開業し、1993年に所沢航空発祥記念館がオープンしています。
返還された土地に置かれた施設の一つが、国土交通省の東京航空交通管制部です。国が受け持つ空域のおよそ7割を担当する、航空管制の拠点です。日本で最初の飛行場の跡地が、いまも日本の空の交通を見守っている。所沢の「航空発祥」は、過去の話だけではありません。
滑走路の跡はどこで見られる?
約50ヘクタールの公園は、ふだんは芝生でくつろぐ家族やジョギングする人でにぎわう場所ですが、注意して歩くと飛行場時代の名残がいくつも見つかります。
- 滑走路の跡:記念館と茶室「彩翔亭」の間にある、少し低くくぼんだ「沈床茶園」のあたりが最初の滑走路です。開設当時は、いまの放送塔の先まで続いていました
- 航空発祥の地記念碑:航空自衛隊で使われたC-46輸送機「天馬」のそばに立っています
- 木村・徳田両中尉の記念塔:墜落した二人をしのぶ塔。所沢駅前などへの移設を経て、1981年に二人が帰るはずだった飛行場の跡地、この公園に移されました
- フォール大佐の胸像:日本の航空技術を高めた功績をたたえて置かれています
公園の外にも、所沢駅西口の「日本の航空発祥地所沢」の碑、市民文化センターミューズ前に立つ、飛行機を掲げた少女の像「離陸1911」、市内の「ファルマン通り」という道の名前など、航空の記憶は街のあちこちに残っています。飛行機の歴史を知ってから歩くと、見慣れた街の景色が少し違って見えるはずです。
所沢航空発祥記念館はいつ再開する?
公園の中央にある所沢航空発祥記念館は、開館から30年以上たったため、2025年9月1日から大規模な改修で休館しています。埼玉県は2026年10月16日、リニューアルオープンは2027年5月1日(土)と発表しました。
県の発表によると、新しい展示の目玉の一つは仮称「アンリ・ファルマン機シアター」です。1911年に所沢で飛んだファルマン機を再現し、当時の飛行の映像を映して、初飛行を追体験できるシアターになります。このほか、東日本大震災で支援物資を運んだ航空自衛隊C1輸送機のコックピット部分(長さ約3.7メートル・幅約3.1メートル・高さ約4.5メートル)の展示、VRの飛行体験、旅客機の客室を再現したブースも準備されています。開館時間やオープンイベントは、決まりしだい発表されます。記念館が休館していても公園は利用でき、滑走路跡や記念碑は自由に見て回れます(記念館横の駐車場は閉鎖中)。休館中の過ごし方や駐車場は、所沢航空発祥記念館の休館とリニューアルの記事にまとめています。
リニューアル後にファルマン機のシアターを体験する前に、公園の滑走路跡を歩いておくのがおすすめです。400メートルの滑走路から、たった1分20秒の飛行で始まった日本の空の歴史。その長さを自分の足で確かめておくと、シアターの「追体験」がぐっと身近になります。
よくある質問
日本で最初の飛行場は所沢ですか?
はい。1911年4月1日に開かれた所沢飛行場が日本で最初の飛行場です。日本で最初の動力飛行は前年12月の代々木練兵場ですが、練兵場は飛行機専用の施設ではありませんでした。
所沢飛行場はいまどうなっていますか?
戦後は米軍基地となり、1971年に約6割が返還され、その後の返還と合わせて約7割が日本に戻りました。跡地には所沢航空記念公園や東京航空交通管制部、学校、病院などがあります。一部はいまも米軍の通信基地として使われています。
航空公園へのアクセスは?
西武新宿線「航空公園」駅の東口から公園に入れます。所沢航空発祥記念館までは駅から歩いて8分ほどです。所在地は所沢市並木1-13です。
この記事の確認日:2026年10月16日に、埼玉県の報道発表(2025年7月8日・2026年10月16日)、埼玉県の基地跡地の公園整備に関するページ、所沢市の資料(広報ところざわ2018年1月号、市制施行70周年記念誌〔1978年の公園一部開園〕、市議会の市政概要〔所沢通信基地〕、基地対策協議会の資料)、国土交通省の東京航空交通管制部のページなどで確認しました。初飛行の高度は資料によって10メートルと15メートルの違いがあり、この記事では埼玉県と記念館の資料の数値を使っています。


