3行でわかる「三社一体」説
- 大宮区の氷川神社(夫の神)、緑区の氷川女體神社(妻の神)、見沼区の中山神社(子の神)は、もとは3社で1つの氷川神社だったという説があります
- 中山神社の旧名は「中氷川」。2社の中間にあることが名前の由来とされ、3社が見沼をはさんでほぼ一直線に並ぶことも説の根拠に挙げられます
- ただし、3社が一つの神社だったことを記した古い記録は見つかっていません。一方で、大宮の氷川神社の境内には江戸時代末期まで夫・妻・子の神の本殿が3つ並んでいたと神社自身が説明しており、こちらは確かな話です
大宮の氷川神社にお参りしたことはあっても、見沼区中川の中山神社や、緑区宮本の氷川女體神社まで足をのばした人は多くないかもしれません。ところが地元には、この3社はもともと「3つで1つの氷川神社」だった、という話が伝わっています。
結論から言うと、これは確かな史実ではなく「説」です。それでも、3社の祭神や位置、家康がそろって与えた朱印地などを並べてみると、そう考えたくなる手がかりがいくつも見つかります。この記事では、説の中身と根拠、そしてどこからが確かでないのかを整理し、3社をめぐる楽しみ方まで紹介します。

3つの神社はどこにあって、どんな神様をまつっているの?
3社はいずれも、かつて広がっていた沼「見沼」を囲む台地の上に建っています。いまの見沼田んぼをはさんで、西北西に大宮の氷川神社、東南東に氷川女體神社、そのあいだに中山神社という並びです。
大宮区高鼻町の武蔵一宮 氷川神社は、古くは「男体社」と呼ばれ、須佐之男命(すさのおのみこと)をまつります。緑区宮本の氷川女體神社は「女体社」にあたり、祭神は妻の奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。そして見沼区中川の中山神社は、かつて「中氷川社」「簸王子社(ひおうじしゃ)」と呼ばれ、大己貴命(おおなむちのみこと)をまつっています。
須佐之男命と奇稲田姫命は、ヤマタノオロチ退治の神話で結ばれた夫婦の神です。大己貴命は大国主神の別名で、『日本書紀』の本文では2柱の子、『古事記』では6代あとの子孫として登場します。この説で中山神社が「子」の役にあてられるのは、そのためです。
3社の距離を地図で測ると、直線で大宮の氷川神社から中山神社まで約3.6km、中山神社から氷川女體神社まで約3.1km。両端の2社は約6.6km離れていて、中山神社はほぼその中間にあります。
「3社で1つ」とは、どういう説なの?
この説は、中山神社の由緒でも「一説には」として紹介されています。骨組みはシンプルで、見沼に面した高鼻(大宮)、三室(いまの緑区宮本のあたり)、中川の3か所にそれぞれ氷川の社があり、男体宮・女体宮・簸王子宮として一組の信仰をかたちづくっていた、というものです。
中山神社がかつて「中氷川」と呼ばれたのは、高鼻の男体社と三室の女体社のちょうど中間にあるから、というのが一つの解釈です。地図で3社を線で結ぶと、見沼を斜めに横切るほぼ一直線になります。広い見沼そのものを神の池「御沼(みぬま)」とし、3社がその岸辺を守る大きな神域だった、と考える人もいます。
水をたたえた沼を、夫婦と子の神が三方から見守る。もし本当にそうだったなら、見沼の風景はいまよりずっと神聖な場所に見えていたはずです。
なぜそう言われるの?説を支える4つの手がかり
1つめは、徳川家康の朱印地です。関東に入った家康は天正19年(1591年)、大宮の氷川神社に100石、氷川女體神社に50石、中氷川神社(いまの中山神社)に15石の朱印地を与えました。同じ年に3社がそろって扱われたことは、当時この3社が一つながりの存在として見られていたことをうかがわせます。
2つめは、中山神社の名前の変遷です。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』では、中川村の神社は「氷川社」として載っています。「中山神社」になったのは明治40年(1907年)、周辺の神社を合わせたときで、新しい名前は鎮座地の「中川」と、となりの上山口新田の「山」を組み合わせたものだそうです。いまも二之鳥居には「氷川神社」と書かれた額が残り、もとの姿をしのばせます。
3つめは、太陽の通り道です。中山神社から見ると、夏至には西北西の氷川神社の方角に日が沈み、冬至には東南東の氷川女體神社の方角から日が昇る、という見方があります。稲作の暦を知るための配置だったのでは、というロマンのある解釈ですが、これも説の一部と受け止めておくのがよさそうです。
4つめは、大宮の氷川神社の境内そのものです。これは次の見出しでくわしく見ていきます。
大宮の氷川神社にも、3つの本殿があったって本当?
こちらは説ではなく、神社自身が説明している事実です。武蔵一宮 氷川神社の由緒によると、江戸時代末期の境内には、須佐之男命をまつる男体宮、稲田姫命をまつる女体宮、大己貴命をまつる簸王子宮という3つの本殿があり、三社は同じ格とされていました。
明治に入ると男体宮が本社、ほかの2つが摂社という扱いに変わり、明治15年には新しい本殿が造られます。そして明治29年、3柱の神がそろって主祭神となり、いまの氷川神社の姿になりました。参道には、安政6年(1859年)に奉納された石灯籠があり、当時境内の女体宮の神主だった角井駿河守の書で「武蔵国一宮東国総鎮守氷川両本宮」と刻まれています。
ここが三社一体説のおもしろいところ
夫・妻・子の神を一組でまつる考え方は、大宮の境内の中に実際にありました。それが見沼のまわりの3つの土地にも広がっていたのか、それとも大宮の境内の三社を、のちに周りの神社に重ねて語るようになったのか。どちらの読み方もできるところに、この説の奥行きがあります。
どこまで確かなの?「説」として読むときの注意
三社一体は、神社の由緒書きや地元の言い伝えの中で語られてきた話です。3社が一つの神社だったことを直接記した古い記録は、編集部が調べた範囲では見つかりませんでした。「中氷川」の由来も「一説には」と紹介されることが多く、解釈は一つではありません。
注意:別の「中氷川神社」と混同しないで
所沢市山口にも「中氷川神社」があり、こちらは大宮の氷川神社、奥多摩の奥氷川神社と合わせて「武蔵三氷川」と呼ばれます。見沼の三社一体とは別の組み合わせです。
3社をめぐるなら、どこを見ればいい?
説が本当かどうかを確かめるより、実際に3社を歩いて、見沼をはさんだ距離感を体で感じてみるのがいちばんの楽しみ方です。夫・子・妻の順に大宮から東南東へ進むと、台地から見沼田んぼへ下り、また台地へ上がる高低差もよくわかります。
武蔵一宮 氷川神社(夫の神)
旧中山道の一の鳥居から約2km続く参道を歩いて向かうのが定番です。いまの本殿には3柱の神がそろってまつられているので、ここから三社めぐりを始めると話がつながります。神社の成り立ちは氷川神社はなぜ「武蔵一宮」?でくわしく紹介しています。
中山神社(子の神)
大宮駅東口から国際興業バスに乗り、「中山神社前」で降ります。第二産業道路の西側に一之鳥居があり、参道を進むと、境内入口に「氷川神社」の額がかかった二之鳥居があります。本殿の裏に回ると、覆屋に守られた旧本殿(埼玉県指定有形文化財)が見られます。材は15世紀後半から16世紀前半のものとわかっていて、見学は外観のみです。
12月8日の「鎮火祭」は、焚き終えた炭火の上を素足で渡り、無病息災と火難よけを祈る神事です。この火で「中氷川」の氷が溶けて「中川」の地名になった、という言い伝えもあります。いったん途絶えた時期があり、境内の掲示では近年は中断しているとも書かれています。実施の有無は公式に案内されていないため、見に行くなら事前に確かめてください。
氷川女體神社(妻の神)
最寄り駅はJR武蔵野線の東浦和駅で、駅から直線で約2.7km。歩くなら40分前後を見ておくと安心です。神社は見沼田んぼを見下ろす台地の縁にあり、南側の見沼氷川公園には市指定史跡の「磐船祭祭祀遺跡」が残ります。見沼干拓で沼に神輿を渡す「御船祭」ができなくなり、享保14年(1729年)に土壇と池をつくって「磐船祭」として続けた跡です(見沼氷川公園の紹介)。月遅れの7月31日には、市指定無形民俗文化財の「名越祓え」も行われます。
3社は歩いてつなぐと合計で10km近くになるため、1日で回るなら車や自転車、バスを組み合わせるのが現実的です。
見沼が田んぼに変わったいま、3社を結んでいた水辺の景色は想像するしかありません。それでも、台地の上の社から見沼田んぼを見下ろすと、ここに大きな沼があり、その岸辺に神々がまつられていた光景が少しだけ浮かんできます。見沼に伝わるもう一つの物語、見沼の竜神伝説とあわせて読むと、3社めぐりがいっそう楽しくなるはずです。
参考資料
- 武蔵一宮 氷川神社「御由緒」
- さいたま市「文化財紹介 中山神社旧本殿」
- さいたま市「文化財紹介 氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡」
- さいたま市「文化財紹介 氷川女體神社の名越祓え」
- Wikipedia「中山神社 (さいたま市)」
- 神社メモ「中山神社」(境内の由緒書きの紹介)
- Shrine-heritager「中山神社(氷川簸王子神社)」(『新編武蔵風土記稿』の記述)
- 旅色「中氷川神社」(所沢市)


