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岩槻はなぜ「人形のまち」?|日光東照宮の職人説を検証

段飾りと人形のシルエットを図形で描いたイラスト 歴史・文化・雑学

3行でわかる岩槻の人形

  • 「日光東照宮の職人が住み着いた」は伝承。公的な説明では、産地の始まりは江戸時代後期とされています
  • 決め手は、箪笥づくりで出る桐粉と、城下町・日光御成道の宿場町という立地
  • 大正以降に大産地へ。いまも埼玉県はひな人形の出荷額全国1位で、2020年には人形博物館も開館

岩槻が「人形のまち」になったのは、周辺の箪笥づくりで大量に出る桐の粉を人形の材料に使えたことと、城下町・宿場町として人と物が行き交う土地だったことが大きな理由です。「日光東照宮の造営に携わった職人が住み着いて人形を作り始めた」という話は有名ですが、公的な資料の多くは「説」「伝えられている」という書き方にとどめていて、裏づける史料は示されていません。

この記事では、その職人説がどこで語られているのかを確かめたうえで、市や県、国の資料から読み取れる岩槻の人形づくりの歩みと、いまの産地の姿を整理します。

桐粉、水、城下町・宿場町という岩槻が人形のまちになった3つの条件を示した図
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「日光東照宮の職人説」は誰が言っている?

岩槻の人形の由来としてよく紹介されるのが、日光東照宮の造営や修築のために集まった工匠(職人)たちが、城下町としてにぎわう岩槻に定住し、人形づくりを始めたという話です。

この話は、国の伝統的工芸品を紹介する伝統的工芸品産業振興協会の「江戸木目込人形」の解説にも、工匠たちが定住して人形づくりを始めた「という」と伝聞の形で載っています。さいたま市のホームページに掲載された街歩きガイドの特集でも、工匠が伝えたとする説があると紹介したうえで、「その始まりは明らかではありません」と書き添えています。

さらに詳しい筋書きが載っているのが、地元金融機関系のシンクタンク、ぶぎん地域経済研究所が発行する「ぶぎんレポート」(2018年2月号)です。職人の定住を「伝えられています」と紹介したうえで、職人たちは桐の粉を糊と練り合わせて人形を作り、貝殻から作る顔料「胡粉(ごふん)」を塗ると発色がよく、岩槻の水が胡粉に合うことも発見した――と、その先の筋書きまで書いています。

つまり、職人説は複数の資料に登場するものの、どれも「伝承」としての扱いです。いつ、誰が最初に語り始めたのかについては、今回確認した公的な資料には書かれていませんでした。

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職人説は史実と合う?年代を比べると

日光市の公式ホームページによると、東照宮は元和3年(1617年)に創建され、現在の主要な社殿は寛永13年(1636年)に三代将軍・徳川家光が造営したものです。職人説が史実なら、岩槻の人形づくりは江戸時代の初めごろにさかのぼることになります。

一方、公的な説明が示す時期はもっと後です。さいたま市は、県内の人形づくりは「江戸に供給する産地として江戸時代後期に始まった」と紹介し、伝統的工芸品「岩槻人形」の解説も始まりを江戸時代後期としています。

2025年秋に岩槻人形博物館で開かれた開館5周年の特別展では、岩槻での江戸時代の人形づくりを示す古文書が新たに見つかったとして初公開されました。出品リストには、幕末維新期の「覚(人形屋荒二郎の請求書)」も載っています。

公的な説明が始まりを江戸時代後期としていることや、特別展の出品リストに載った古文書が幕末維新期のものであることを考えると、17世紀前半の東照宮造営と人形づくりを直接結びつけるのは難しいと考えられます。ただし、職人説を否定する史料が示されているわけでもありません。「由来を彩る伝承」として楽しむのがちょうどよい距離感でしょう。

伝承と史料の分け方:東照宮の造営は1617年創建・1636年造営。これに対して、市や伝統的工芸品の解説が示す人形づくりの始まりは江戸時代後期で、特別展の出品リストに載った古文書「覚」も幕末維新期のもの。職人説は「そう伝わる話」として読むのが安全です。

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なぜ岩槻で人形づくりが根づいた?

さいたま市の「岩槻区のみどころ」は、起源には諸説あるとしたうえで、人形産業が生まれ育った条件を二つ挙げています。一つは、頭(かしら)の材料になる桐粉が、岩槻・春日部地域の箪笥づくりで大量に出て手に入りやすかったこと。もう一つは、岩槻台地の鉄分を含んだ水が、顔の色の発色によいといわれていることです。

桐の粉を正麩糊(しょうふのり)で固めたものは「桐塑(とうそ)」と呼ばれ、市の文化財紹介では江戸木目込人形の型の材料として説明されています。伝統的工芸品「岩槻人形」でも、頭は木彫りか桐塑で作り、胡粉を塗って仕上げる工程が示されています。

もう一つの土台が立地です。岩槻は岩槻藩の城下町であり、日光御成道の宿場町でもありました。江戸に近く、人と物が行き交う町だったことが、江戸向けの供給産地として育つ下地になったのでしょう。

日光東照宮の職人説と確認できる説明・史料を比べた図

「人形のまち」になったのはいつ?

伝統的工芸品「岩槻人形」の解説によると、明治初期には、農閑期に節句人形を作っていた職人の技術と、士族が内職で作っていた人形の技術が合流し、雛人形が岩槻で本格的に作られるようになりました。明治時代には五月人形なども含めて生産が広がり、関東を中心に出荷されたといいます。

産地として大きく伸びたのは近代以降です。市は「大正時代以降、本格的な産地として発展」と紹介し、岩槻区の観光マップ解説は「関東大震災以降、人形の一大生産拠点として成長」と書いています。高度経済成長期には300軒近い工房と問屋が軒を連ね、県内最大の産地になりました。

岩槻の人形づくり 年表
  • 1617年
    日光東照宮が創建(職人説が結びつける出来事)
  • 江戸時代後期
    江戸への供給産地として人形づくりが始まる(市の説明)
  • 明治初期
    雛人形の本格的な製造が始まる
  • 大正〜昭和
    関東大震災以降、一大生産拠点へ成長
  • 1978年
    「江戸木目込人形」が伝統的工芸品に指定
  • 2007年
    「岩槻人形」が伝統的工芸品に指定
  • 2020年
    さいたま市岩槻人形博物館が開館

岩槻ではどんな人形が作られている?

岩槻の人形は、大きく分けて衣裳着人形の「岩槻人形」と「江戸木目込人形」の2種類です。どちらも経済産業大臣が指定する伝統的工芸品で、指定日は江戸木目込人形が昭和53年(1978年)2月6日、岩槻人形が平成19年(2007年)3月9日です。

岩槻人形は、絹の着物を実際に着付けるように仕立てるのが特徴で、頭に付ける胴が大ぶり、輪郭は丸く、目が大きくはっきりした顔立ちのものが多いとされます。江戸木目込人形は、木の胴に彫った溝に布の端を押し込んで着せる人形で、主な製造地域はさいたま市・春日部市と東京都内の各区です。市によると、人形本体だけでなく小道具やケース、雛屏風といった周辺の物づくりも行われています。

生産量はどれくらい?いまの数字は

岩槻だけの最新の生産量や事業所数は、今回確認した公式資料には載っていませんでした。確認できるのは埼玉県全体の数字です。埼玉県によると、節句人形・ひな人形の出荷額は約37億円で全国1位(総務省・経済産業省「2024年経済構造実態調査」、2023年1〜12月の実績)。県の別のページでは、2018年の数字として43億円・全国1位と紹介されています。

岩槻人形博物館は、岩槻をはじめとする埼玉県を「日本最大の日本人形の生産地」と位置づけています。埼玉の日本一については実は埼玉が日本一のもの20選でもまとめています。

出荷額約37億円、工房と問屋300軒近く、伝統的工芸品2品目、博物館所蔵5,000点以上を示した図

人形博物館や雛めぐりはいつ楽しめる?

さいたま市岩槻人形博物館は2020年2月22日に開館しました。市の資料は「日本初の人形をテーマにした公立博物館」と紹介しており、所蔵する人形と関係資料は5,000点以上にのぼります。人形ができるまでの分業の工程や、頭づくり・面相描きの技法を紹介する展示もあります。

まちの行事では、2026年は第23回「人形のまち岩槻 まちかど雛めぐり」が2月21日から3月8日まで、岩槻駅東口周辺の商店街で開かれました。2027年の日程は、記事作成時点ではまだ発表されていません。秋には、古い人形や壊れた人形を供養する「人形供養祭」があり、市のよくある質問では11月3日(祝)午前10時〜午後2時、岩槻城址公園の人形塚と案内されています(問い合わせ先は岩槻人形協同組合など)。その年の開催の有無や受付方法は、出かける前に問い合わせ先で確認してください。

職人説の真偽はわからなくても、桐の粉と街道が育てた産業が、いまも博物館や行事として町に息づいている――それが岩槻の「人形のまち」の正体だといえそうです。埼玉の地場産業の成り立ちに興味がわいたら、川口の鋳物や行田の足袋の話と読み比べてみるのも面白いと思います。

参考資料

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