3行でわかる川口の鋳物
- 荒川の砂と粘土、江戸への舟運に恵まれ、江戸時代に鋳物師が集まる一大産地になった
- 幕末は大砲、明治は水道管。昭和はキューポラ(鉄を溶かす炉)の煙突が並び、1942年に生産量日本一
- 1964年東京五輪の聖火台も、川口の鈴木萬之助・文吾父子の手で生まれた
川口駅東口の広場が「キュポラ広場」と呼ばれているのを不思議に思ったことはないでしょうか。キューポラとは、鉄を溶かす円筒形の炉のこと。かつての川口には、この炉の煙突が何本も立ち並び、それが街の風景そのものでした。
マンションが建ち並ぶいまの川口からは想像しにくいかもしれません。けれど、街を少し歩くと、工場の跡地や鋳物の看板、記念碑がいまも残っています。江戸の台所から東京五輪の聖火まで、川口の鋳物がたどった道を順に見ていきます。

なぜ川口で鋳物づくりが盛んになったのか
鋳物は、溶かした金属を型に流し込んで形をつくる技術です。型には砂や粘土を使うため、良質な砂がどこで採れるかが産地の条件になります。川口は荒川と芝川に面し、鋳型に適したきめの細かい川砂と粘土に恵まれていました。
もう一つの強みは運びやすさです。荒川の舟運に加え、日光御成道が町を通っていたため、原料を取り寄せるのも、重い製品を江戸へ届けるのも楽でした。巨大な消費地のすぐ隣に、材料と道が揃っていたわけです。
始まりの時期ははっきりしません。平将門の時代にさかのぼる説や、宋から渡ってきた人が伝えたという説など、言い伝えはいくつもあります。確かなところでは、室町時代の末にはすでに鋳物がつくられていたと考えられています。
江戸時代、川口は何をつくっていた?
江戸時代になると、川口には鋳物師が集まって住み、一大産地を形づくります。江戸の問屋と結びついて生産を伸ばし、ほかの土地の鋳物師が農具を中心につくっていたのに対し、川口では鍋や釜などの台所道具、仏具、釘といった都市の暮らしに欠かせない品が多くつくられました。
長屋のかまどにかかった鍋、寺の境内に置かれた天水桶。江戸の人々が毎日使う道具の少なからぬものが、荒川を渡ってやってきた川口生まれだったのです。
幕末、鍋釜の町が大砲をつくった
外国船が日本の近海に現れるようになった幕末、海の守りを固めるため、幕府や諸藩は大砲を求めました。白羽の矢が立ったのが、大きな鋳物を扱える川口の鋳物師たちです。
代表的な一人が増田安次郎です。嘉永5年(1852年)には津軽藩(いまの青森県)の依頼で、全長約3.5メートルの18ポンドカノン砲を鋳造したと伝えられます。製造には西洋砲術の先駆者・高島秋帆も協力し、のちに秋帆は増田の大砲を高く評価したと伝わります。増田家の流れをくむ増幸産業の資料によれば、嘉永5年から安政5年(1858年)までに、大砲213門と砲弾4万発余りが全国に送り出されたといいます。
同じころ、永瀬家の初代・庄吉は、伊豆韮山の反射炉の部品を鋳造し、安政6年(1859年)に幕府が開いた小菅銭座では貨幣づくりの棟梁を務めました。鍋釜の町は、国を守る兵器と、経済を回すお金までつくる町になっていたのです。
明治の近代化:足で踏むふいごから蒸気の力へ
明治に入ると、川口の鋳物は西洋の技術を取り込んで大きく変わります。永瀬家の3代目・庄吉は、16歳で工部省赤羽工作分局に入り、イギリス人技術者から西洋式の鋳型づくりと、蒸気機関で炉に風を送る方法を学びました。それまで職人が足で踏んで風を送っていた作業が、機械に置き換わったのです。
1887年(明治20年)には、東京市の依頼で国内初となる水道用の大口径の異形管を鋳造しました。洋館の鉄の門や柵、橋の欄干など、文明開化の街並みにも川口の鋳物が使われていきます。
日清戦争・日露戦争のころからは兵器や砲弾の生産も担い、大正から昭和にかけては、鍋釜中心から産業機械の部品を大量につくる方向へ舵を切りました。そして1942年(昭和17年)、川口は工業統計で、単独の市として鋳物の生産量日本一になります。
キューポラとは?煙突が林立した最盛期
キューポラは、鉄を溶かすための縦長の炉です。上からコークスと鉄の材料を交互に入れ、下から風を吹き込んで燃やすと、溶けた鉄が炉の底にたまり、それを取り出して鋳型に流し込みます。炉から上に伸びる煙突こそが、川口の風景をつくった「キューポラ」の正体です。

戦後、川口は大きな空襲の被害を免れたこともあり、工場はいち早く操業を再開しました。川口鋳物工業協同組合によると、1947年(昭和22年)には市内の鋳物工場が703か所を数え、生産額は全国の約3分の1を占めました。さらに1950年に始まった朝鮮戦争の特需で注文が押し寄せ、生産は戦前の最高を上回ります。生産量のピークは1973年(昭和48年)の40万7千トンです。
この時代の川口を描いたのが、1962年公開の映画「キューポラのある街」です。原作は早船ちよの小説、監督は浦山桐郎、主演は吉永小百合。鋳物職人の父が職を失った一家の暮らしを通して、煙突の立つ町で懸命に生きる人々が描かれ、「キューポラ」の名は全国に知られるようになりました。
東京五輪の聖火台は、父の死を越えて生まれた
1964年の東京オリンピックで聖火が燃えた国立競技場の聖火台。この聖火台は、もともと1958年に東京で開かれた第3回アジア競技大会のために、川口でつくられたものです。
依頼を受けたのは鋳物師の鈴木萬之助。納期はわずか3か月で、引き受け手が見つからなかった仕事でした。ところが、溶けた鉄を流し込む途中で鋳型が破裂し、鋳造は失敗。萬之助はそのショックで倒れ、帰らぬ人となります。
後を継いだのは三男の鈴木文吾でした。市内の職人たちの協力を得て、ほとんど眠らずに作業を続け、納期に間に合わせます。完成した聖火台には父・萬之助の名が刻まれました。この聖火台に、6年後の東京五輪で聖火がともったのです。
聖火台のその後
旧国立競技場の解体後、聖火台は東日本大震災からの復興の象徴として2015年から宮城・岩手・福島を巡回しました。2019年には61年ぶりに川口へ里帰りし、川口駅東口のキュポラ広場で展示されました。現在は新しい国立競技場の敷地内、青山門(東側Gゲート)の正面に置かれています。

工場の数はどれくらい減った?
高度経済成長が終わると、海外との競争や工場の郊外移転、住宅地化の波が川口にも押し寄せました。東京に近く便利な土地だからこそ、工場の跡地は次々にマンションや駐車場に変わっていきます。
日本大学の研究者が鋳物工場の集まっていた金山町を調べたところ、大正10年から昭和7年ごろには61軒あった鋳物工場(このほかに木型屋なども15軒)が、平成17年(2005年)の住宅地図では7軒にまで減っていました。キューポラの煙突が並ぶ風景は、いまではほとんど見られません。
それでも鋳物の技は途切れていません。マンホールのふたや機械部品、工芸品をつくる工場が今も操業しているほか、日三鋳造所は「日本唯一のベーゴマメーカー」として、鋳鉄製のベーゴマをつくり続けています。
川口で鋳物の歴史にふれるには
開館時間や休館日は変わることがあります。郷土資料館は出かける前に電話(048-283-3552)で確認すると安心です。
- 室町時代末鋳物づくりが始まる
起源は諸説あり
- 江戸時代鋳物師が集まる一大産地に
鍋・釜・仏具・釘を江戸へ
- 1852年増田安次郎が18ポンドカノン砲を鋳造
津軽藩の依頼と伝わる
- 1887年国内初の水道用大口径異形管
永瀬家が東京市の依頼で鋳造
- 1942年鋳物の生産量で日本一に
単独の市として(工業統計)
- 1947年鋳物工場703か所
生産額は全国の約3分の1
- 1958年アジア大会の聖火台を鋳造
鈴木萬之助・文吾父子
- 1962年映画「キューポラのある街」公開
- 1964年東京五輪で聖火がともる
- 1973年生産量がピークに
40万7千トン
- 2019年聖火台が61年ぶりに川口へ里帰り
参考資料
- 広報かわぐち 2019年10月号(聖火台の里帰り)
- 川口鋳物と永瀬家(旧永瀬邸)
- 大砲の歴史(増幸産業)
- 川口鋳物が近代化を背景に日本一になるまで(まっぷるウェブ)
- 埼玉県川口市 鋳物工場の分布状況にみる歴史的変遷(日本大学生産工学部)
- 鋳物の歴史(川口鋳物工業協同組合)
- 聖火台について(日本スポーツ振興センター)
- 彩の国だより 2026年4月号(ベーゴマ資料館)


