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入間基地の歴史|ジョンソン基地から航空祭まで

空を飛ぶ3機の飛行機と白いスモーク、米軍ハウス風の平屋と滑走路を描いたイラスト 埼玉の歴史・文化・雑学

結論:航空自衛隊入間基地のルーツは、1938年(昭和13年)に開校した陸軍航空士官学校です。戦後は米軍に接収されて「ジョンソン基地」と呼ばれ、1958年に航空自衛隊の入間基地が発足。1973年に大部分、1978年に全面返還されて、いまの姿になりました。毎年11月3日の入間航空祭には、2025年に約26万人が訪れています。

返還の歴史は、稲荷山公園(狭山市)や米軍ハウスの街ジョンソンタウン(入間市)にいまも残っています。航空祭の前後に歩くと、基地の80年がぐっと身近になります。

入間基地の年表。1938年陸軍航空士官学校開校、1946年ジョンソン基地、1958年入間基地発足、1973年大部分返還(163.1ha)、1978年全面返還、2025年航空祭約26万人。返還の跡は稲荷山公園とジョンソンタウン。面積3.2平方キロのうち入間市分は0.48平方キロ

11月3日の朝、西武池袋線の稲荷山公園駅は、カメラを抱えた人であふれます。お目当てはブルーインパルス。けれど、すぐ隣の芝生の公園がかつて米軍の「ハイドパーク」だったことや、基地の名前の由来まで知っている人は多くありません。入間基地がどうやってここにでき、何を残してきたのかをたどります。

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入間基地はいつ、なぜここにできたの?「入間」なのに狭山市?

始まりは戦前です。入間市の資料によると、1938年に陸軍士官学校の豊岡分校が発足し、同じ年に陸軍航空士官学校になりました。航空自衛隊入間基地が航空祭で配った資料の年表も、1938年の陸軍航空士官学校の開校を出発点にしています。パイロットを育てる学校と飛行場が、当時の入間郡の台地に置かれたのが、いまの基地の原点です。なぜこの場所が選ばれたのかを詳しく説明した公的な資料は見つかりませんでしたが、一帯は平らで広い武蔵野台地の上にあり、東京からも近い土地でした。

名前にも少しねじれがあります。入間市の資料によると、基地の面積3.2平方キロのうち入間市にあるのは0.48平方キロ(約15%)だけで、大半は狭山市側にあります。それでも「入間」と呼ばれるのは、米側の記録で終戦直後の飛行場が「入間川(Irumagawa)」と呼ばれていたように、当時の地名にちなんだためと考えられます。現在の狭山市の中心部は、1954年に周辺の村と合併するまで入間郡入間川町でした。

学校の周辺には、将校たちの住まいも必要になりました。のちのジョンソンタウンを運営する磯野商会の社長の講演記録によると、同社は1938年の開校にあわせ、国の要請で将校用の日本家屋を50戸建てて貸し出しています。基地と町の暮らしは、この時から結びついていました。

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なぜ「ジョンソン基地」と呼ばれたの?

終戦とともに米軍が進駐し、航空士官学校の施設は接収されました。入間市の資料と空自の年表はいずれも、1946年にジョンソン基地(ジョンソンエアベース)になったとしています。名前は、米陸軍航空軍の第49戦闘航空群を率いたジェラルド・R・ジョンソン大佐(中佐とする資料もある)にちなむものです。米側の記録によると、ジョンソンは1945年10月、B-25で入間川の飛行場へ向かう途中、台風の中で墜落して亡くなりました。

米兵とその家族が暮らすため、基地の周りには「米軍ハウス」と呼ばれる白い板張りの平屋が建ち並びました。埼玉県知事の地域訪問の記録によると、磯野商会は1954年(昭和29年)、米軍の求めに応じて駐留米兵の家族用の米軍ハウスを建設しています。基地の周りには、アメリカの郊外を思わせる町並みが生まれました。

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米軍から自衛隊へ。返還はどう進んだ?

入間基地の歩み(入間市資料・空自年表ほか)
  • 1938年
    陸軍航空士官学校が開校

    陸軍士官学校豊岡分校として発足し、同年に航空士官学校へ

  • 1946年
    ジョンソン基地に

    終戦後に米軍が進駐し、米陸軍航空軍(のち米空軍)の基地として使われる

  • 1954年
    航空自衛隊が発足

    同じ年、磯野商会が米軍の求めで米兵家族用の米軍ハウスを建設

  • 1958年
    入間基地が発足

    ジョンソン基地の中に航空自衛隊の司令部が置かれる

  • 1973年6月
    大部分(163.1ha)が返還

    基地内の公園「ハイドパーク」も戻り、のちの稲荷山公園に

  • 1978年
    全面返還

    米軍ハウスの多くは取り壊される

  • 2020年
    航空観閲式を初開催

    2021年には輸送機C-2を配備

米軍の撤退は一度にではなく、段階的でした。入間市の資料では、1973年6月に163.1ヘクタールが返還され、1978年に全面返還されています。返還地には公園や学校、住宅地がつくられ、基地の外側の景色は大きく変わりました。

返還の跡はどこに残っている?

いちばん身近なのが、稲荷山公園駅の目の前に広がる県営狭山稲荷山公園です。ジョンソン基地の中にあった公園「ハイドパーク」が1973年に返還され、市営公園を経て、2002年4月1日から県営公園になりました。広い芝生と桜並木は、基地の公園だった時代の面影を伝えています。航空祭の日は、ここから飛行展示を見上げる人も多くいます。

もう一つが、入間市のジョンソンタウンです。基地の全面返還後、周辺にあった米軍ハウス600〜700棟の多くは取り壊されました。磯野商会は残った米軍ハウスを日本人向けの賃貸住宅として使い続けましたが、老朽化が進みます。そこで2003年に「米軍ハウスを残したまちづくり」を決め、改修と新築を重ねて、2009年に「磯野住宅」から「ジョンソンタウン」へ名前を変えました。2015年には都市景観大賞を受けています。

ジョンソンタウンを歩くなら

西武池袋線「入間市駅」から徒歩約18分。白い板張りの平屋の間に、カフェや雑貨店、ギャラリーが点在します。いまも人が暮らす住宅地なので、住まいの敷地に入ったり、玄関先を撮影したりするのは控えましょう。

いまの入間基地はどんな基地?

入間市の資料によると、入間基地には中部航空方面隊司令部、航空救難団、電子戦隊、補給処、自衛隊入間病院など18の部隊があり、隊員は約4,500人です。基地は入間市と狭山市にまたがり、面積の大半(約85%)は狭山市側です。航空祭で多くの人が使う最寄りの稲荷山公園駅も狭山市にあります。

空自の年表を見ると、近年も役割は広がり続けています。2020年に航空観閲式を初めて入間基地で開き、2021年に大型輸送機C-2を配備。2022年には自衛隊入間病院が開院し、航空医学実験隊も立川から移ってきました。入間航空祭で輸送機や救難機の展示が充実しているのは、こうした部隊の顔ぶれを映しています。

入間航空祭はどれくらい人が来る?

入間航空祭は例年11月3日の文化の日に開かれる、基地の一般公開です。Aviation Wireの報道によると、2024年は約25万人、2025年は約26万人が訪れました。乗りものニュースは、基地のある狭山市の人口(約14万7,000人)を大きく上回る20万人以上が毎年来場していると伝えています。都心から電車で行ける航空祭として、関東最大級の人出になります。

2026年の開催日や時間、駐車場、混雑を避ける行き方は、別の記事にまとめています。

注意:基地の中の史料館「修武台記念館」は、隊員教育のための施設で、一般の見学は事前登録制で月1〜2回程度と、2024年の乗りものニュースの記事で報じられています。日本で初めてエンジンで飛んだ飛行機「アンリ・ファルマン号」もこの記念館の隣の格納庫に展示されています。見学の可否と方法は、入間基地の広報で最新の案内を確認してください。

よくある質問

Q. 入間基地は入間市にあるの?
入間市と狭山市にまたがっていて、入間市の資料では面積3.2平方キロのうち入間市分は0.48平方キロです。つまり大半は狭山市にあり、最寄りの稲荷山公園駅も狭山市です。

Q. 航空祭のときにジョンソンタウンも回れる?
入間市駅から徒歩約18分なので、航空祭の帰りに寄ることはできます。ただ当日は駅も道路も大混雑するので、時間に余裕を持つか、別の日に訪ねるのがおすすめです。

Q. 所沢の「航空発祥の地」とは関係ある?
直接の前身ではありませんが、つながりはあります。1911年に日本初の飛行場が開かれた所沢と、陸軍航空士官学校が置かれた入間・狭山は、どちらも日本の航空の歴史を支えた土地です。所沢の歴史は所沢はなぜ「航空発祥の地」?で紹介しています。

参考:入間市「基地対策」資料、航空自衛隊入間基地「航空祭」資料(年表)、埼玉県「ようこそ知事室へ 西部地域」(令和元年11月26日)、全国宅地建物取引業協会連合会掲載の磯野商会講演記録、Aviation Wire(2025年11月4日)、乗りものニュース(2024年2月23日ほか)、Wikipedia「Iruma Air Base」(基地名の由来)

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