3行でわかる「浦和」の由来
- 「浦和」の由来ははっきりしていませんが、いちばん有力なのは、入り組んだ水辺を指す古い言葉「浦曲(うらわ)」から来たという説です
- 約6,000年前の縄文時代には、海が浦和の台地のすぐ下まで入り込んでいました。市内の貝塚から出る貝が、その証拠です
- ただし「浦和」の名が使われた中世には海はすでに退いていました。江戸時代の浦和は沼の多い「水郷地帯」だったと市も紹介しており、「浦」が指したのは沼や曲がった川の岸辺だった可能性が高い、というのがこの記事の見立てです
海のない埼玉の、しかも県庁所在地に「浦」の字。浦賀、浦安と並べると、浦和だけ明らかに場違いに見えます。結論から言うと、「昔ここに海があった」は本当です。ただ、それがそのまま地名になったかというと、話はもう少し入り組んでいます。
この記事では、辞典や市の資料をもとに、浦和という名前についての説を並べて比べ、縄文時代の海の証拠、そして地名が生まれた中世の浦和の姿を順にたどります。

「浦和」という名前には、どんな説があるの?
まず押さえておきたいのは、浦和の由来は「これで決まり」という答えがないことです。日本大百科全書は、地名は中世の郷村の名前に由来すると書くだけで、意味までは踏み込んでいません。そのうえで、よく紹介される説は大きく次の3つです。
1つめは「浦曲(うらわ)」説。いちばんよく紹介される説で、入り組んで曲がった岸辺を指す古い言葉「浦曲」が地名になったというものです。辞書によると「浦曲」は、万葉集にも出てくる「浦廻(うらみ)」と同じ言葉。上代には「み」と読んでいた「廻」の字を、後の時代に「わ」と読んだことから「うらわ」という形が生まれたとされ、もとは海岸が曲がって入り込んだところを指しました。
2つめは、縄文時代の海の入り江説。縄文時代に海が入り込んでいたから、入り江を表す「浦」がついた、という考え方です。海があったのは事実ですが、名前が使われた時代とは数千年の開きがあります。
3つめは、曲がりくねった川の水辺説。昔の入間川(いまの荒川の流れ)が大きく曲がっていた土地、あるいはその中州を指したという説です。
こうして並べると、3つの説は実は同じ方向を向いています。どれも「浦和は曲がりくねった水辺の土地だった」と言っているのです。違うのは、その水辺が「海」だったのか「川や沼」だったのか、という一点だけです。
本当に浦和の近くまで海があったの?
これは本当です。約6,000年前の縄文時代前期、地球が今より暖かかったころは海面が高く、東京湾は今よりずっと内陸まで入り込んでいました。研究者はこの海を「奥東京湾」と呼び、この現象は「縄文海進」と呼ばれています。
浦和の中心部は、大宮台地という平らな高台の上にあります。縄文の海は、この台地の縁まで迫っていたと考えられています。その証拠が、台地の上に残る貝塚です。さいたま市の文化財になっている中央区の大戸貝塚(縄文時代前期)からは、ヤマトシジミを中心に、マガキやハマグリなどの貝が見つかっています。大宮区の側ヶ谷戸貝塚(同じく前期)も、ヤマトシジミが主体の貝塚です。どちらも旧浦和市の外ですが、浦和と同じ大宮台地の縁にある貝塚です。
貝の種類が教えてくれること
ヤマトシジミは、川の水と海の水が混じる「汽水」にすむ貝です。マガキやハマグリは海の貝。つまり、さいたま市の台地の下に広がっていたのは、波の荒い外海ではなく、川の水が流れ込む穏やかな入り江だったことがわかります。浦和の台地から坂を下りれば潮干狩り、という光景も、6,000年前なら夢ではなかったのです。
では「浦和」の名前は海から来たの?
ここが一番おもしろいところです。海が退いたのは数千年前。一方、「浦和」という名前が郷村名として使われるのは中世になってからです。名づけた人たちは、海を見たことがなかったはずです。
では、彼らは何を見て「浦」と呼んだのか。海が退いたあとの低地には、沼や湿地、曲がりくねった川が残りました。浦和の東には見沼、西には荒川の低地が広がり、台地の縁は水辺に面していました。さいたま市浦和区の解説でも、江戸時代の浦和周辺は沼地が多く、川魚が豊富な「水郷地帯」だったと紹介されています。そして「浦」という字は海だけのものではありません。辞書でも「海や湖が湾曲して陸地に入り込んだ所」と説明されていて、湖の岸辺にも使われます。台地から見下ろす入り組んだ水辺の景色こそが「浦曲」だった、と考えるのが自然でしょう。
言いかえると、縄文の海は「浦和」の名付け親ではなくても、名前のもとになった地形をつくった張本人です。海が台地を削り、退いたあとに沼と川を残し、その水辺が「うらわ」と呼ばれた。海の記憶は、地形を通して名前に受け継がれているわけです。
台地の上の浦和は、その後どう発展したの?
水辺に囲まれた台地の上という地形は、浦和のまちの形も決めました。江戸時代、浦和は中山道で日本橋から3番目の宿場町「浦和宿」として栄えます。江戸時代の初め、慶長年間には徳川家康が鷹狩りの際に休んだり泊まったりするための「浦和御殿」が置かれました(いまの常盤公園のあたり)。宿場では室町時代に始まったとされる市が2と7のつく日に開かれ、昭和の初めまで続いていました。
沼や川の多い土地だったことは、名物にもつながっています。江戸時代、沼地でとれたウナギを魚釣りの行楽客に出したのが浦和のうなぎの始まりとされ、味の評判を聞いてわざわざ立ち寄る旅人もいたといいます。浦和はいまも「うなぎのまち」として知られています。
明治に入ると、1869年(明治2年)に浦和宿に県庁が置かれて浦和県が生まれます。1871年に埼玉県ができた後も県庁は浦和に置かれ続け、1876年(明治9年)に正式な県庁所在地となりました(くわしくは埼玉県の誕生と県庁が浦和にある理由で)。市になったのは1934年(昭和9年)で、全国の県庁所在地の中でいちばん遅い市制施行です。そして2001年、大宮市・与野市と合併してさいたま市になり、2003年に浦和区が誕生しました。
ほかにも「浦和」という地名はあるの?
埼玉以外にも、北海道福島町の浦和、新ひだか町の静内浦和、愛知県西尾市東幡豆町の浦和、鹿児島県いちき串木野市の浦和町があります。それぞれの由来は別々に調べる必要がありますが、海や川に近い土地が多いのは、「浦」が水辺を表す字だからかもしれません。
| いまの地名 | さいたま市浦和区(旧浦和市の中心部) |
|---|---|
| 地形 | 大宮台地の上。東に見沼の低地、西に荒川の低地 |
| 縄文の海の証拠 | 大戸貝塚(中央区)、側ヶ谷戸貝塚(大宮区)など、縄文時代前期の貝塚 |
| 名前の有力説 | 入り組んだ水辺を指す「浦曲(うらわ)」 |
| 宿場 | 中山道・浦和宿(日本橋から3番目) |
地形を体で感じたいなら、浦和の台地から東の見沼田んぼへ下りてみてください。台地の縁には斜面林が残り、坂を下りきると一面の低地が広がります。そこが、縄文時代には入り江、江戸時代には沼の多い水郷だった場所です。国土地理院の「地理院地図」で色別標高図を表示すると、浦和の中心部が一段高い台地の上にあることもひと目でわかります。「浦」の景色は、いまも地形の中に残っているのです。
参考資料
- コトバンク「浦和」(日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典ほか)/「浦曲」(デジタル大辞泉)
- 東京書籍 東書Eネット「地名のいわれ-埼玉県- 埼玉県『浦和』の地名の歴史」
- さいたま市浦和区「中山道浦和宿」(PDF)
- さいたま市「文化財紹介 大戸貝塚」
- さいたま市「文化財時報」第68号(側ヶ谷戸貝塚)
- 浦和CITY「全国には『浦和』が付く地名が埼玉以外にもある」
- 国土地理院「地理院地図」


