3行でわかる埼玉県の誕生
- 埼玉県が生まれたのは明治4年11月14日(旧暦)。この日が「埼玉県民の日」の由来
- ただし当時は県の東半分だけで、西には入間県があった。いまの形になったのは明治9年8月21日
- 県名は岩槻が属した「埼玉郡」から。県庁は岩槻の予定だったが、建物がなく約1か月で浦和へ移った
11月14日の「埼玉県民の日」は、この誕生日に由来します。県誕生から100年目の1971年(昭和46年)に定められ、いまも県内の公立学校が休みになり、県立の博物館などが無料・割引になる日として親しまれています。
ところが、その日に生まれた埼玉県を地図で見ると、いまの姿とはまるで違います。県庁は浦和ではなく岩槻の予定で、川越には「入間県」の県庁がありました。そこから熊谷県の時代を経て、現在の形にまとまるまで約5年。教科書ではほとんど触れられない、埼玉県誕生の舞台裏をたどります。

江戸時代、埼玉はどう治められていた?
埼玉県の土台は、古代から続く「武蔵国」の北半分です。江戸の将軍のお膝元にあたるため、大きな大名は置かれず、土地は細かく分けて治められていました。
城を構えていた藩は、忍(おし、現在の行田市)、川越、岩槻の3つだけ。残りは幕府の直轄領、旗本の領地、寺社の領地がモザイクのように入り組み、江戸の終わりには県域に関わる領主が1,000を超えたともいわれます。一つの村を何人もの旗本で分け合う例も珍しくありませんでした。
明治維新で幕府領が新政府に移ると、まず明治の初めに大宮県が置かれ、ほどなく県庁を浦和に移して「浦和県」と名を改めます。この浦和県の庁舎が、のちに埼玉県庁の行き先を決めることになります。
埼玉県はいつ、どうやって生まれた?
1871年(明治4年)7月、新政府は廃藩置県を断行し、全国は3府302県に細分されました。忍・川越・岩槻の3藩もそれぞれ県になりましたが、名前が変わっただけで、統治の中身は旧藩のままでした。
そこで政府は同じ年の10月から11月にかけて府県を一気に統合し、全国を3府72県に整理します。その中で11月14日、浦和県・岩槻県・忍県に周辺の諸県の領地などを合わせて「埼玉県」が誕生しました。石高は約48万石、人口は翌年時点で約42万7,000人です。
同じ日、西側には川越県を中心に「入間県」が生まれ、川越城の本丸に県庁が置かれました。入間郡、比企郡、秩父郡、大里郡など西部から北部の十数郡を受け持つ県で、人口は埼玉県とほぼ同じ40万人台。武蔵国の北部が、東西にほぼ半分ずつ割られた形です。政府が示した府県の序列では埼玉県が全国8位、入間県が9位で、東京に近い土地として重く見られていました。
県庁はなぜ岩槻ではなく浦和になった?
誕生した埼玉県の県庁は、当初、岩槻に置くと定められていました。城下町としてにぎわい、統合された各県のほぼ中央にあったからです。仮の県庁には、鎌倉時代から続く曹洞宗の古刹・芳林寺(現在のさいたま市岩槻区)があてられました。
初代県令(いまの知事)は薩摩出身の野村盛秀。大久保利通らの推薦による抜擢でした。野村は12月6日に東京を発って岩槻、忍、浦和を視察した後、「岩槻には県庁の建物も役人の住まいもない」として、旧浦和県の庁舎を仮庁舎に使いたいと大蔵省に願い出ます。願いは12月14日に認められ、24日に浦和で埼玉県庁が開かれました。岩槻の県庁は、ほとんど実体のないまま1か月ほどで終わったことになります。
浦和が選ばれたのは、中山道の宿場町で東京と行き来しやすく、旧浦和県の施設がそのまま使えたからです。中央との連絡を最優先した明治の役人には合理的でしたが、県北の住民にとっては県庁がかえって遠くなりました。
岩槻には「県庁への採用を断られた元家老格の人物が、刀を下げて毎日のように芳林寺へ押しかけ、困った役人が浦和へ逃げ出した」という別説も残ります。昭和10年に元岩槻町長が東京日日新聞で紹介した話ですが、裏づけはなく、真偽は不明です。
「埼玉」という県名の由来は?
県名は、県庁予定地の岩槻が属していた「埼玉郡(さきたまぐん)」から採られました。郡名の元をたどると、現在の行田市埼玉(さきたま)に行き着きます。国宝の金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳を含む「さきたま古墳群」があり、古くからの地域の中心でした。近くには前玉(さきたま)神社もあり、奈良時代の『万葉集』にも「さきたま」の地名が登場します。
「さきたま」がなまって「さいたま」になったと考えられています。語源には、神の恵みを表す「幸魂(さきみたま)」説や、「多摩の先」を意味する「前多摩」説などがあり、定説はありません。
なぜ「岩槻県」ではなかったのか
明治のジャーナリスト宮武外骨は、維新のとき新政府に敵対したり態度があいまいだったりした藩は藩名を県名に使えず、郡名などを付けられたと書いています。この見方では、岩槻藩は「岩槻県」を名乗れず、埼玉郡の名を取ったことになります。西の入間県も、県庁のある川越ではなく郡名です。ただし異論も多く、一つの解釈として受け止めるのがよさそうです。

皮肉なのは、県庁がすぐ足立郡の浦和に移ったことで、「埼玉郡に県庁がある県」という命名の理由がわずか1か月で消えてしまった点です。それでも「埼玉」の名は残り、150年以上使われ続けています。
熊谷県とはどんな県だった?
同じ武蔵国が二つに分かれた状態は不便も多く、明治5年には両県から統合の意見が大蔵省に出されましたが、実現しませんでした。
動いたのは1873年(明治6年)です。群馬県令の河瀬秀治が入間県令を兼ね、前橋と川越を行き来しながら仕事をすることになりました。効率が悪いとして両県の中間の熊谷に事務所が置かれ、6月15日、入間県と群馬県が正式に統合されて「熊谷県」が誕生します。県庁は熊谷、支庁は前橋・川越・秩父郡大宮郷(現在の秩父市)に置かれ、人口は約83万人の大きな県でした。
川越と前橋は江戸時代から養蚕・製糸で結びつきが強く、上州から横浜港へ生糸を運ぶ流れの中にありました。熊谷が3年間、県庁所在地だった時代があることは、県内でも意外と知られていません。

いまの埼玉県の形はいつ決まった?
1876年(明治9年)、政府は全国を3府35県に再編します。8月21日に熊谷県は解体され、上野国にあたる北側は群馬県に、武蔵国にあたる13郡は埼玉県に合わさりました。5年前に東西に分けられた武蔵国の北部が、ここでようやく一つになります。
新しい埼玉県は石高約91万石、人口約89万人。旧埼玉県と旧入間県の部分がほぼ半分ずつを占める大きな県でした。前後して、東京府との境を荒川の中央とすることや、千葉県の一部(金杉村など43か村)の編入も行われ、県境はほぼ現在の形に落ち着きます。
ただ、県庁は浦和のままでした。広くなった県の北西の秩父や児玉から見れば、浦和は東京寄りの南東の端です。この距離感が、のちの県庁移転騒動の火種になります。
その後、県庁の移転騒動はあった?
ありました。明治19年、明治30年、明治36年と、少なくとも三度にわたって県庁移転問題が起きています。候補として名前が挙がったのは、元熊谷県庁の地で鉄道と養蚕で栄えた熊谷や、交通の要所として伸びていた大宮でした。明治23年(1890年)には浦和町を県庁所在地とする勅令が出されましたが、その後も移転を求める声は再燃しました。それでも騒動はそのたびに収まり、県庁は今日まで浦和にあります。1948年(昭和23年)の火災で旧庁舎の大部分が焼けた後も、同じ場所で再建されました。
2001年(平成13年)、浦和・大宮・与野の3市が合併して「さいたま市」が誕生。2005年(平成17年)には岩槻市が編入されて岩槻区になりました。明治4年に県庁が置かれるはずだった岩槻、実際に県庁が開かれた浦和、県庁の座を争った大宮が、130年余りを経て一つの市になったわけです。郡名の読みだった「さいたま」が、ひらがなの市名として県庁所在地に戻ってきたのも、歴史のめぐり合わせといえます。
- 明治4年7月廃藩置県
忍・川越・岩槻の3藩が県に。全国3府302県
- 明治4年11月14日埼玉県と入間県が誕生
東に埼玉県(県庁は岩槻の予定)、西に入間県(県庁は川越)。県民の日の由来
- 明治4年12月24日埼玉県庁が浦和で開庁
旧浦和県の庁舎を使用
- 明治6年6月15日熊谷県が誕生
入間県と群馬県が統合。県庁は熊谷
- 明治9年8月21日いまの埼玉県が成立
熊谷県のうち武蔵国13郡を埼玉県に合併
- 1971年県民の日を制定
誕生100年を記念し11月14日に
- 2001年・2005年さいたま市誕生、岩槻市を編入
浦和・大宮・与野・岩槻が一つの市に
ゆかりの地を訪ねるなら
県民の日(11月14日)に出かけるなら、県庁が1か月だけ置かれた岩槻の芳林寺、県名のふるさとである行田のさきたま古墳群、3年間だけ県庁所在地だった熊谷、入間県庁が置かれた川越城本丸御殿をめぐると、150年前の「生まれたての埼玉」が立体的に見えてきます。県民の日に無料・割引になる施設は埼玉県民の日2026の無料・割引施設まとめで確認できます。
参考資料
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