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川越はなぜ「小江戸」?|蔵造りの町並みが残った理由

蔵造りの町並みと時の鐘のシルエットを描いた図 歴史・文化・雑学

3行でわかる川越の「小江戸」

  • 「小江戸」は、江戸と舟運や街道で結ばれて栄えた川越を表す呼び名。文字で確認できる最初の例は大正2年(1913年)で、意外に新しい言葉
  • いまの蔵造りの町並みは江戸時代のものではなく、明治26年(1893年)の大火のあとに商人たちが建て直したもの
  • 商業の中心が駅のほうへ移って取り壊しが進むなか、住民の保存運動が実り、1999年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた

川越が「小江戸」と呼ばれるのは、江戸時代に江戸と舟運や街道で結ばれ、物資の集まる町として大いに栄えたからです。ただし、この呼び名が文字で確認できるのは大正時代からで、意外に新しい言葉です。そして黒い蔵造りの町並みが今も残っているのは、明治の大火のあとに商人たちが燃えにくい蔵造りで町を建て直し、それを昭和の住民たちが守り抜いたからです。

年間700万人を超える人が訪れる川越。けれど「小江戸」という呼び名がいつ生まれたのか、蔵造りの町並みがいつ、なぜできたのかは、意外と知られていません。この記事では、江戸とのつながり、明治の大火、そして町並みを残した保存運動まで、川越の歩みをたどります。

江戸時代の舟運による繁栄、明治の大火後の蔵造り、昭和から平成の保存運動という川越の3つの時代をまとめた図
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「小江戸」とはどういう意味?

川越市は「小江戸」を、川越と江戸・東京との深いつながりを示す言葉で、いまでは川越の代名詞として定着している呼び名だと説明しています。江戸時代の川越は、新河岸川の舟運によって物資が集まり、また江戸へ送り出される拠点として栄えました。その繁栄ぶりを「小さな江戸」にたとえたのが「小江戸」です。

ただし、この呼び名は江戸時代から使われていたわけではありません。川越市の文化財保存活用地域計画は、川越での「小江戸」の初出を大正時代とし、「比較的新しい呼び名」としています。城西大学の研究者による論文によると、文字資料での初見は大正2年(1913年)に川越商業会議所が出した『川越案内』。「小江戸の称空しからざるに到れり」という一文があり、読みは「せうえど」とされていました。

論文によると、この一文は柳沢吉保が城主だった時代の、かつてない繁栄ぶりを振り返る文脈で書かれたものでした。この言葉が一気に広まったのは、さらに後のことです。市の広報紙『広報川越』に初めて登場するのは昭和48年(1973年)。昭和40年代後半から、市は広報紙の見出しに「小江戸」を盛んに使うようになります。昭和54年(1979年)には観光ガイドブック『小江戸川越』が出版され、同じ年から『広報川越』にはほぼ毎号「小江戸」の文字が載るようになりました。平成8年(1996年)には、同じく「小江戸」と呼ばれる栃木市・佐原市(現香取市)とともに「小江戸サミット」も始まりました。

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川越はなぜ江戸と深く結びついていた?

川越の歴史は、長禄元年(1457年)に太田道真・道灌の父子が河越城を築いたことに始まります。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入ると川越藩が置かれました。江戸に近い大切な城下町だったため、藩主には将軍の信頼が厚い親藩や譜代の大名が置かれています。

いまの町の骨組みをつくったのは、「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱です。寛永15年(1638年)の大火で城と城下の大半が焼けると、翌年に藩主となった信綱のもとで「十ヵ町四門前」と呼ばれる町割りが行われました。この区割りが、現在の川越の中心部の原型になっています。

江戸と川越を結ぶ交通も整えられていきます。陸では、中山道の脇往還として栄えた川越街道。川では、新河岸川の舟運です。舟運の始まりには、寛永15年の大火のあと喜多院の再建資材を運んだのが最初だとする説など、いくつかの説があります。

舟運では川越周辺の産物が江戸へ運ばれ、乗客と急ぎの荷物を運ぶ「早船」は、午後3時ごろに新河岸を出ると、翌日の昼ごろには浅草に着いたといいます。舟運は鉄道の発達などにより、昭和6年(1931年)に幕を閉じました(新河岸川の河岸の様子は福岡河岸記念館で知ることができます)。

「小江戸」は「江戸のミニチュア」ではない:「小江戸」というと、江戸の町並みをそのまま小さくした町を想像しがちです。けれど言葉の中心にあるのは、舟運と街道で江戸と結ばれ、物と人が行き交って栄えた町という意味合いです。しかも、いまの蔵造りの町並みが生まれたのは明治時代。「江戸時代の景色がそのまま残った町」ではない点が、川越の歴史のおもしろいところです。

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蔵造りの町並みは江戸時代のもの?

蔵造りの町並みを見ると、江戸時代の建物が並んでいるように感じます。ところが、そのほとんどは明治時代の後半に建てられたものです。きっかけは、明治26年(1893年)3月17日に起きた川越大火でした。

この大火で、当時の川越町のおよそ3分の1にあたる約1,300戸(時の鐘のパンフレットでは1,302戸)が焼けてしまいます。そのなかで焼け残ったのが、寛政4年(1792年)に建てられた蔵造りの商家・大沢家住宅でした。埼玉県の景観資源の資料では関東地方で最も古い蔵造りの商家とされ、昭和46年(1971年)に国の重要文化財に指定されています。

川越市の地域計画は、その後の町の動きをこう説明しています。焼け残った大沢家住宅を見た人々が、競うように同じような蔵造りの建物を建てた。当時は江戸・東京にも蔵造りの町家が多く、燃えにくい建物の材料には、レンガではなく東京で見慣れた土壁が選ばれた、と。分厚い土壁で覆った蔵造りは、日本に古くからある耐火建築でした。

蔵造りが選ばれた3つの理由(焼け残った大沢家住宅、東京で見慣れた土壁、燃えにくい耐火建築)をまとめた図

こうして明治40年代ごろまでの十数年で、蔵造りの町並みができあがりました。重厚な店構えには、大火から町を立て直そうとした川越商人の意気込みがうかがえます。

時の鐘も大火のあとに建て直された

蔵造りの町並みのシンボル「時の鐘」も、同じ大火で焼けています。川越市のパンフレットによると、最初の鐘楼は、酒井忠勝が川越城主だった寛永4年から11年(1627〜1634年)の間に建てたと伝えられます。その後も江戸時代に2度焼けては再建され、明治26年の大火で焼失。いまの鐘楼は、その翌年の明治27年(1894年)に再建されたものです。

鐘は今も1日4回、午前6時・正午・午後3時・午後6時に町に時を告げています。平成8年(1996年)には、環境庁(当時)の「残したい日本の音風景100選」にも選ばれました。

なぜ蔵造りの町並みが今まで残ったのか?

明治の終わりにできあがった蔵造りの町並みは、その後ずっと安泰だったわけではありません。転機をもたらしたのは鉄道でした。明治28年(1895年)に川越鉄道(いまの西武新宿線)が川越駅(いまの本川越駅)まで延び、大正時代には東上鉄道(いまの東武東上線)が、昭和15年(1940年)には国鉄川越線が開通します。駅はいずれも、蔵造りの町並みがある北側の旧市街ではなく、南側に設けられました。

駅前の発展と車社会の広がりで、昭和30年代後半から40年代にかけて、商業の中心は川越駅の周辺へ移っていきます。北側の旧市街の商店街はさびれ、蔵造りの商家は次々に取り壊されていきました。

流れを変えたのは、町の人たちの声でした。昭和46年(1971年)、蔵造りの「旧万文」の取り壊しに反対する運動が起こります。昭和52年(1977年)にはこの建物が蔵造り資料館として開館し、昭和58年(1983年)には住民や専門家による「川越蔵の会」が発足しました。昭和62年(1987年)には一番街の商店街が町並み委員会をつくり、翌年には建物の建て方や改修のルールを定めた「町づくり規範」をまとめています。

こうした取り組みが実り、平成11年(1999年)12月1日、川越の一番街を中心とする約7.8ヘクタールが、国の重要伝統的建造物群保存地区(種別は商家町)に選ばれました。令和4年(2022年)3月現在、地区内の伝統的建造物は136件。そのうち蔵造りの町家が20件、土蔵などの倉庫が33件あります。

1971年の旧万文取り壊し反対から1999年の重要伝統的建造物群保存地区選定までの年表図

振り返ると、商業の中心が駅のほうへ移り、大きな再開発が北側の旧市街に及ばなかったことも、町並みが残る一因になったと考えられます。ただ、それだけで蔵が残ったわけではありません。さびれて壊されかけた町並みを、住民が「守る価値がある」と声を上げ、自分たちでルールを作ったことが決め手になりました。

歴史を知って歩くなら、どこを見る?

ここまでの歴史を知ってから一番街を歩くと、町並みの見え方が変わります。まず目に留めたいのは、大火で焼け残った大沢家住宅。明治の商人たちが手本にしたとされる建物で、ほかの蔵と見比べると、町並みの出発点がここにあったことが実感できます。

次に、保存運動のきっかけになった旧万文、いまの蔵造り資料館です。取り壊されかけた蔵が、町並みを守る動きの最初の一歩になりました。そこから路地を入れば、明治27年に再建された時の鐘がそびえています。鐘の音を聞くなら、正午や午後3時に合わせて歩くのがおすすめです。

いまの川越はどうなった?

保存された町並みは、川越を全国有数の観光地に押し上げました。川越市によると、令和7年(2025年)の入込観光客数は716万人。そのうち外国人は推計80.6万人で、前年より15%余り増えました。

蔵造りの町並みを歩いて食べ歩きを楽しむ人も多く、毎年10月の川越まつりでは、蔵造りの町並みを山車が進みます。大正時代に生まれた「小江戸」という呼び名は、明治の蔵と昭和の保存運動に支えられて、いまの川越の顔になりました。

よくあるイメージ実際のところ
江戸時代から「小江戸」と呼ばれていた文字で確認できる最初の例は大正2年(1913年)。市の広報で広まったのは昭和40年代後半から50年代
蔵造りの町並みは江戸時代のものほとんどは明治26年(1893年)の大火のあと、明治40年代ごろまでに建てられた
時の鐘は江戸時代の建物創建は江戸時代初期と伝わるが、いまの鐘楼は明治27年(1894年)の再建
町並みは自然に残った取り壊しが進むなか、昭和46年(1971年)からの住民の保存運動が守った
川越の町並み 年表
  • 1457年
    太田道真・道灌が河越城を築く
  • 1639年
    松平信綱が藩主に。町割りと舟運・街道の整備
  • 1792年
    大沢家住宅が建てられる
  • 1893年
    川越大火。約1,300戸が焼ける
  • 1894年
    時の鐘が再建される
  • 1913年
    『川越案内』に「小江戸」の文字
  • 1971年
    旧万文の取り壊し反対運動が起こる
  • 1983年
    川越蔵の会が発足
  • 1999年
    国の重要伝統的建造物群保存地区に選定

参考資料

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