3行でわかる「ライオンズと所沢」
- 福岡のライオンズは経営難が続き、1978年10月に西武グループの国土計画が買収。1979年から所沢を本拠地にした
- 所沢が選ばれたのは、西武グループが狭山丘陵の西武園球場の場所に、プロ野球もできる新しい球場の建設を進めていたから
- 所沢に来てからは1980〜90年代に黄金時代を築き、2008年には地域に根ざす「埼玉西武ライオンズ」に改称した
西武ライオンズが所沢に来たのは、西武グループが福岡の球団を買い取ったとき、所沢の狭山丘陵でちょうど新しい球場の建設を進めていたからです。1978年10月、経営難のクラウンライターライオンズを西武グループの国土計画が買収し、翌1979年のシーズンから、完成したばかりの西武ライオンズ球場を本拠地にしました。
いまや所沢の代名詞ともいえる埼玉西武ライオンズ。けれど、もともとは九州・福岡の球団でした。なぜ福岡のライオンズが、遠く離れた埼玉の所沢にやってきたのでしょうか。この記事では、福岡時代の栄光と低迷から、1978年の買収、所沢での新しい出発、そして黄金時代までを、球団の公式記録や当時を知る人の証言をもとにたどります。

ライオンズはもともと福岡の球団だった?
はい、ライオンズは福岡で生まれた球団です。球団の会社は1950年1月28日に西鉄野球株式会社として創立され、1951年から「西鉄ライオンズ」として福岡の平和台球場を本拠地に戦いました。1956年から1958年にかけては日本シリーズで3年連続日本一に輝き、黄金時代を築いています。
ところが、球団の公式記録は「1968年を境に、西鉄は低迷の一途をたどる」と記しています。1969年には、八百長に関わったとされる「黒い霧事件」が報じられ、エースの池永正明をはじめ多くの主力選手がチームを離れました。同じ年のシーズン後には、黄金時代を支えた稲尾和久と中西太が引退を表明します。1970年と1971年は2年続けて最下位に沈み、1971年の勝率は.311でした。
1973年には「太平洋クラブライオンズ」、1977年には「クラウンライターライオンズ」と、球団名と経営母体が次々に変わります。それでもチームの不振と経営難は続き、公式記録は1978年を「経営難により、ついに九州でのライオンズの歴史に終わりが告げられた」年として振り返っています。
なぜ西武グループが買収したの?
1978年10月12日、西武グループの国土計画がクラウンライターライオンズを買収したことが伝えられました。西日本新聞のフォトライブラリーには、ライオンズが福岡を去ることを伝える号外に見入る市民の姿が残されています。10月25日には、球団の会社名が福岡野球株式会社から株式会社西武ライオンズに変わりました。
スポーツ誌のweb Sportivaによると、クラウン側から売却の打診があったのは1978年の夏でした。売る側から見ても「新球場を建設中でもある西武グループが球団を買収しない理由はどこにもない」と映ったと、記事は書いています。西武グループはこのとき、所沢でプロ野球の公式戦ができる規模の球場の建設を進めていたのです。
同じ記事によると、国土計画の堤義明社長の父で西武グループを築いた堤康次郎は、「野球にだけは手を出すな」と言い遺していたといいます。その遺言を越えて、堤義明氏は球団の買収に踏み切りました。
なぜ本拠地は所沢になった?
所沢が本拠地になった最大の理由は、西武グループが所沢市上山口の狭山丘陵に建てていた新しい球場の存在です。東京スポーツの連載で、元プリンスホテル野球部監督の石山建一氏が語ったところによると、国土計画はプロ野球の公式戦ができる貸し球場を極秘に計画していました。候補地の一つだった豊島園は環境面から難しいと判断され、狭山丘陵にあったアマチュア用の「西武園球場」の場所に建てることになったといいます。
石山氏の回想では、堤氏は現地で「ここに球場を造る」と告げ、球場の近くまで線路を延ばすよう即断即決で指示したそうです。実際に狭山線は延ばされ、西所沢寄りにあった終点の狭山湖駅に代わって、球場の目の前に「西武球場前駅」ができました。
こうして、福岡で買い取った球団と、所沢に建てた球場が結びつきます。球団の会社案内によると、いまも球場に来る人の多くは西武線の沿線や埼玉県内に住む人たちです。鉄道の沿線に球場とレジャー施設をそろえるという西武グループの事業と、ライオンズの所沢移転は、切り離せない関係にあったといえそうです。
「球場が先、球団が後」だった:ライオンズの所沢移転は、「球団が先にあって、新しい本拠地を探した」のではなく、「球場が先にあって、そこに球団がやってきた」という順番でした。web Sportivaによると、この球場は、1978年9月に結成が発表されたプリンスホテル野球部の本拠地と考えられていた一方、プロ野球の試合を呼ぶ貸し球場として建てられたといいます。プロ野球の本拠地としての所沢は、偶然と計画が重なって生まれたのです。

所沢での1年目はどうだった?
1979年、「西武ライオンズ」として所沢での新しい歴史が始まりました。球団の公式記録によると、初代監督は根本陸夫。オーナーの堤義明氏は「球界の盟主になれ」と期待をかけ、阪神から田淵幸一、ロッテから野村克也といったスター選手を獲得しました。
ところが、1年目の成績は振るいませんでした。シーズンは45勝73敗12分の最下位。新天地での船出は、決して順調なものではありませんでした。それでも1980年、1981年と少しずつ力をつけ、1981年には所沢移転後初めて勝率5割に到達します。
所沢に来てから強くなった?
所沢に来てからのライオンズは、プロ野球史に残る黄金時代を築きます。広岡達朗監督のもとで1982年に初の日本一に輝き、1983年も連覇。続く森祇晶監督の時代には、1986年から1988年まで3年連続、1990年から1992年まで再び3年連続の日本一を達成しました。球団の公式記録によると、森監督の9年間でリーグ優勝8度、日本一6度という圧倒的な強さでした。
西武ライオンズとして過ごした1979年から2007年までの29年間で、リーグ優勝は15回、日本一は9回(2004年を含む)。埼玉西武ライオンズとなった2008年にも日本一に輝き、前身の西鉄時代から今までの通算では、リーグ優勝23度、日本一13度を数えます(球団公式)。

一方、ライオンズを失った福岡には、1988年まで地元のプロ球団がない時代が続きました。文春オンラインによると、1988年8月、ダイエーが南海ホークスを買収して福岡に移すと報じられると、平和台球場に駆けつけて涙を流すオールドファンまで現れたといいます。福岡ダイエーホークスが誕生したのは1989年のことでした。
「埼玉西武ライオンズ」になったのはなぜ?
2008年1月1日、球団名に「埼玉」が加わり、「埼玉西武ライオンズ」になりました。球団によると、目的は地域密着をさらに進め、ファンから愛される球団を目指すことです。ちなみに所沢市の公文書によると、市は球団名に「所沢」を入れるよう求めていましたが、それはかないませんでした。
本拠地の球場も、1999年に屋根をかけてドーム球場に生まれ変わりました。名前は西武ライオンズ球場から、西武ドーム、インボイスSEIBUドーム、グッドウィルドーム、再び西武ドーム、西武プリンスドーム、メットライフドームと変わり、2022年3月1日からは「ベルーナドーム」になっています。2018年と2019年にはリーグを連覇し、2018年には所沢駅前で優勝パレードも行われました。
福岡で生まれ、所沢で黄金時代を迎えたライオンズ。その出発点には、狭山丘陵に建てられた一つの球場がありました。所沢の駅や電車にライオンズの姿があふれる今の風景は、1978年秋の決断から始まっているのです。
- 1951年西鉄ライオンズとして福岡で始動
- 1973・77年太平洋クラブ、クラウンライターと改称
- 1978年10月西武グループの国土計画が買収
- 1979年西武ライオンズとして所沢を本拠地に
- 1982年所沢移転後、初の日本一
- 1999年球場がドーム球場に
- 2008年埼玉西武ライオンズに改称
- 2022年球場名がベルーナドームに
参考資料
- 球団概要(埼玉西武ライオンズ)
- ライオンズ・クラシック 球団史(埼玉西武ライオンズ)
- 球団史 1964〜1971(埼玉西武ライオンズ)
- 球団史 1972〜1978(埼玉西武ライオンズ)
- 球団史 1979〜1981(埼玉西武ライオンズ)
- 西武ライオンズの歴史(埼玉西武ライオンズ)
- 球団史 1986〜1994(埼玉西武ライオンズ)
- 日本シリーズの歴史(埼玉西武ライオンズ)
- 株式会社西武ライオンズ 会社案内
- ベルーナドーム(埼玉西武ライオンズ)
- 西武がクラウンライターを買収(西日本新聞フォトライブラリー)
- 社会人野球の名門・プリンスホテルの歴史(web Sportiva、2023年7月)
- 石山建一連載 第8回(東スポWEB)
- 石山建一連載 第10回(東スポWEB)
- 1988年、ホークス福岡移転(文春オンライン)
- ホームタウン推進事業の評価(所沢市)
- 西武ドームの名称の変遷(東洋経済オンライン、2015年)
- ベルーナドームへの名称変更(宣伝会議 AdverTimes、2022年)
- 所沢市制施行70周年記念誌(所沢市)


