明治17年(1884)11月、秩父の山あいの村々から、数千人の農民が竹やりや刀、銃を手に集まりました。郡役所を占拠し、高利貸の家を襲い、軍隊に鎮圧されるまで約10日。「秩父事件」は、自由民権運動の時代に起きた最大級の武装蜂起といわれます。なぜ、ふだん養蚕で暮らしていた人たちが立ち上がったのでしょうか。
この記事の結論:秩父事件は、生糸の値段が暴落し、高利の借金に苦しんだ秩父の農民が「困民党」をつくり、明治17年11月1日に椋神社(いまの秩父市下吉田)で蜂起した事件です。求めたのは借金返済の猶予や税・学校費の軽減。大宮郷(いまの秩父市中心部)を占拠しましたが、憲兵隊と鎮台兵に鎮圧され、11月9日に長野県で最後の一隊も解体しました。処罰された人は数千人、死刑は7人にのぼります。

なぜ農民は立ち上がった?生糸の暴落と高利の借金
当時の秩父は、山がちで田んぼが少なく、多くの家が養蚕と生糸づくりで現金収入を得ていました。ところが明治10年代半ば、政府の財政引き締め(松方デフレ)と世界的な不況が重なり、生糸の値段が大きく下がります。明治17年には養蚕の不作も重なりました。
収入が減る一方で、地方税は増え、学校をつくる費用や新しい道を開く負担ものしかかります。銀行のような金融の仕組みが整っていなかったため、暮らしのお金は金貸会社や高利貸、質屋から借りるしかありません。不況になると金利は法外に跳ね上がり、借金を返せずに土地を失う家が相次ぎました。
農民の代表は明治16年11月、郡役所に「高利貸に返済を待つよう言い聞かせてほしい」と願い出ましたが、受け付けてもらえませんでした。話し合いで解決する道が閉ざされたことが、のちの蜂起につながっていきます。
困民党は何を求めた?4つの要求
明治17年、農民たちは「困民党」を組織し、次の4つを求めました。
10年待ってもらい、その後40年で返す。合わせて最長50年がかりの返済計画です。「借金を帳消しにしろ」ではなく、返す前提で時間をくれと求めていたことがわかります。同じ年の2月には自由党の大井憲太郎が秩父を訪れ、これをきっかけに自由党に入った農民たちが困民党の中心になりました。9月には32の村に指導組織ができ、大宮郷の田代栄助が総理(リーダー)に迎えられています。なお、蜂起の直前には大井憲太郎が思いとどまるよう説得しましたが、困民党の幹部は応じませんでした。
4つの要求の挙げ方は資料によって少しずつ違い、学校費については「小学校を3年間休校に」と求めたとする資料もあります。
蜂起から鎮圧まで、10日間に何が起きた?
| 日付(明治17年) | できごと |
|---|---|
| 10月26日 | 下吉田村の粟野山で会議。11月1日の蜂起を決める |
| 10月31日 | 風布村の農民が一足早く立ち上がる |
| 11月1日 | 下吉田の椋神社に集結。役割表と軍律を発表し出発。警官隊との衝突で双方に死者 |
| 11月2日 | 約3,000人で大宮郷に入り、郡役所を本部として占拠。高利貸の家を襲い、役場の帳簿や書類を焼く |
| 11月3日 | 皆野で憲兵隊と銃撃戦 |
| 11月4日 | 幹部が皆野の本陣を離れ、指導部が崩れる |
| 11月7日 | 菊池貫平の一隊が十石峠を越え、長野県南佐久郡へ |
| 11月9日 | 未明に東馬流(長野県)で鎮台兵と警官隊に襲われ、同日午後に八ヶ岳のふもと(野辺山)で最後の一隊が解体 |
椋神社に集まった農民たちは、総理・副総理・参謀長(会計長)・大隊長といった役割を決め、厳しい軍律まで定めていました。その軍律はよく守られたといわれます。ただの暴動ではなく、組織だった行動だったことがうかがえます。参加者は最大で1万人近くにふくらんだともいわれます。
一方、埼玉県は内務卿に軍隊の派遣を求め、憲兵隊と鎮台兵が送り込まれました。銃を持った正規の兵を相手に、農民側は数日で崩れていきます。それでも一部は群馬県を経て長野県まで山を越えて転戦し、事件全体が終わるまでには約10日かかりました。
その後どうなった?処罰と「30年逃げた会計長」
事件の後、農民たちは厳しく裁かれました。処罰された人の数は資料によって差があり、有罪が確定した人を3,386人とするもの、4,500人を超えたとするものがあります。総理の田代栄助をはじめ7人が死刑になりました。
北海道で30年以上逃げ続けた井上伝蔵
困民党の会計長だった井上伝蔵は、11月4日に本陣から逃げ、裁判にかけられないまま死刑の判決を受けました。しばらく秩父に潜んだあと、明治20年(1887)ごろ「伊藤房次郎」という名で北海道へ渡り、石狩で代書業や商店を営み、結婚して家族も持ちます。俳句の会でも活躍し、養子縁組の証人や神社の祭典委員といった町の世話役まで務めました。大正7年(1918)6月、北見(当時の野付牛)で亡くなる直前、初めて家族に本当の名前を明かしたといいます。新聞は「秩父事件巨魁の死」と報じました。
秩父事件はどう評価されている?
当時の政府は、ごく一部の壮士や博徒が農民をそそのかした事件だと説明し、新聞もその見方で報じました。その後の研究では、自由民権運動が過激になった「激化事件」の頂点と位置づける見方と、借金の返済をめぐる昔ながらの農民騒動としての性格が強く、自由民権運動との結びつきは薄いとする見方があります。どちらにしても、生糸という一つの産業に暮らしを預けていた地域が、世界の景気の波にのみ込まれたときに何が起きるのかを示す出来事として、今も語り継がれています。
ゆかりの地を訪ねるには?
農民たちが集まった椋神社は、いまの秩父市下吉田にあります。毎年10月第2日曜日には、手づくりのロケットを打ち上げる「龍勢祭」の舞台にもなる神社です。龍勢の打ち上げやぐらは、アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』にも登場しました。
| 椋神社 | 秩父市下吉田。困民党が集結した場所。龍勢祭の会場 |
|---|---|
| 道の駅 龍勢会館 | 秩父市吉田久長32。秩父事件資料館を併設 |
| 秩父事件資料館 | 井上伝蔵の家を復元した建物。映画『草の乱』の撮影にも使われた |
| 行き方 | 西武秩父駅から西武観光バス(秩父吉田線・吉田元気村行)で「龍勢会館」下車。椋神社へは龍勢会館から歩いて行ける |
| 問い合わせ | 龍勢会館 0494-77-0333 |
確認を 秩父事件資料館の開館日・料金は、公式の情報で確認できませんでした。出かける前に龍勢会館へ電話で確かめてください。
よくある質問
秩父事件はいつ起きた?
明治17年(1884)11月1日に蜂起し、11月9日に長野県で最後の一隊が解体しました。準備の段階を含めると、10月末から約10日間の出来事です。
なぜ「困民党」という名前?
借金や不況で暮らしに困った人々の集まり、という意味です。自分たちを「困民」と名乗り、借金の返済猶予などを求めました。
参加した人数は?
大宮郷に入ったときは約3,000人で、最大では1万人近くにふくらんだといわれます。資料によって数字に幅があります。
参考:コトバンク「秩父事件」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)/コトバンク「井上伝蔵」/石狩市の資料(井上伝蔵)/埼玉県 秩父地域振興センター(龍勢会館・椋神社)/埼玉県の資料(井上伝蔵邸)
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