江戸時代の初めまで、利根川は今の埼玉県東部の低地を南へ流れ、東京湾に注いでいました。それを約60年かけて東へ付け替え、千葉県銚子から太平洋へ流したのが「利根川東遷」です。1594年の会の川締切から1654年の赤堀川拡幅まで、伊奈忠次・忠政・忠治の3代が中心となって進めたとされ、江戸の水害対策・新田開発・舟運が目的で、伊達政宗への備えだったともいわれます。羽生市の川俣締切跡(県指定旧跡)、旧流路の「会の川」、幸手市の権現堂堤など、埼玉県内には今もその跡が残っています。
地図で利根川をたどると、群馬から埼玉の北の県境に沿って東へ進み、茨城と千葉の間を抜けて銚子で海に出ます。日本一の流域面積を持つ大河が、首都・東京を通らずに太平洋へ向かうこの形は、実は自然のままの姿ではありません。江戸幕府が何十年もかけて人の手で造り変えた結果です。なぜそんな大工事をしたのか。そして、埼玉のどこに当時の名残があるのか。教科書では数行で終わってしまう「利根川東遷」を、埼玉の目線で掘り下げます。

もともと利根川はどこを流れていた?
国土交通省利根川上流河川事務所の解説によると、利根川はかつて東京湾に注いでいました。今の加須・久喜・春日部・越谷のあたりは、利根川や渡良瀬川、荒川が運ぶ水と土砂がたまってできた低い土地で、川筋はいく筋にも分かれ、洪水のたびに流れを変えていたと考えられています。春日部や越谷を流れる「古利根川」(正式には大落古利根川)という名前は、その名のとおり、かつての利根川の流れの名残です。
羽生市から加須市へ流れる「会の川(あいのかわ)」も、そうした旧流路のひとつです。羽生市上川俣を起点に加須市川口まで続く小さな川で、今は農業用水と排水路として使われています。両岸には自然堤防と呼ばれる少し高い土地が帯のように続き、加須や不動岡の市街地はその上に発達しました。かつて大河が運んだ土砂の上に町が乗っている、というわけです。
60年がかりで少しずつ東へ
東遷は、ある日を境に川筋をすっかり付け替えた工事ではありません。分かれていた流れを1本ずつ締め切り、台地を掘り割って新しい水路をつなぐ作業を、約60年にわたって積み重ねたものです。国土交通省の資料をもとに主な工事を並べると、次のようになります。
- 1590年徳川家康が江戸に入り、伊奈忠次(のちの関東郡代・伊奈氏の祖)が治水を担う
- 1594年会の川を締め切る(羽生市・川俣締切)
- 1621年新川通と赤堀川を開削
新川通は今の加須市内を東へ延びる直線の流路
- 1635〜41年江戸川を開削
- 1654年赤堀川の拡幅が終わり、利根川の水が太平洋へ
伊奈忠次・忠政・忠治の3代にわたる事業とされる
- 1928年幸手市付近の権現堂川の締め切りが完了
権現堂堤の公式サイトは1925年に栗橋側、1927年に関宿側を締め切ったと紹介
ポイントは1621年の赤堀川です。今の茨城県五霞町と古河市の境のあたりで台地を切り通し、利根川の水を東の常陸川(今の利根川下流)へ流す道をつくりました。ただ、最初は川幅が狭く、本格的に水が東へ流れるようになったのは拡幅が終わった1654年。それでも洪水のたびに水は古い流れにも向かい、江戸川へ分かれる水量の調整は明治・大正の改修まで続きました。
なぜ利根川を曲げたのか――4つの目的
利根川上流河川事務所は、東遷の目的として次の3つを挙げ、さらに伊達政宗への備えの意味も「あったといわれています」と伝聞の形で添えています。どれか一つに絞るより、時代によって重みが変わっていったと考えるほうが自然です。
- 江戸を水害から守る:東京湾に向かう洪水の勢いを東へそらす
- 新田開発:水が引いた低湿地を田んぼに変え、年貢を増やす
- 舟運:銚子から利根川・江戸川をさかのぼって江戸へ物資を運ぶ水の道をつくる
- 伊達政宗への備え:東北からの侵攻に対し、大河を堀の代わりにする
国土交通省の年表資料でも、江戸川の開削は舟運のルートを確保するためと説明されています。利根川と江戸川の分かれ目にあたる関宿(千葉県野田市)は、川船の行き来の要所になりました。洪水対策だけでは説明しきれない、物流の道づくりという顔も持っていたわけです。
「始まりは1594年」は本当?
多くの資料では、東遷の始まりを1594年の会の川締切としています。羽生市の文化財解説によると、忍城(行田市)の城主になった松平忠吉の命を受け、家老の小笠原三郎左衛門吉次が堤を築いて会の川を締め切ったと伝えられ、跡地は「川俣締切跡」として1963年に埼玉県指定旧跡になりました。2024年には締め切りから430年を記念したパネル展も開かれています。
一方で、地元でまとめられた資料「会の川概要」(2022年)は、近年の研究として、会の川締切の目的は忍領(今の行田・羽生周辺)の水害対策と新田開発で、利根川を東へ流す東遷そのものは1621年の赤堀川の開削から始まった、とする見方を紹介しています。羽生市の解説でも、締め切りを命じたのは忍城主の松平忠吉とされています。「東遷は1594年に始まった」と言い切るより、「地元の治水から始まった工事が、のちの大事業につながった」と捉えるのが今の理解に近いでしょう。
川は昔の道を覚えていた――1947年のカスリーン台風
東遷は洪水をなくしたわけではありません。東遷の完了から300年近くたった1947年9月16日の午前0時20分ごろ、カスリーン台風による大雨で、利根川右岸の堤防が北埼玉郡東村(今の加須市)の新川通で約350メートルにわたって決壊しました。1621年に開削された、あの新川通です。あふれた水は埼玉東部の低地を南へ流れ下り、荒川の水とも合わさって東京の葛飾区・江戸川区まで広がり、9月20日に東京湾に達しました(国土交通省の記録)。
人の手で東へ向けた川も、堤防が切れれば、土地の低いほう――かつて流れていた南へと向かいます。埼玉東部が今も大雨に備えた施設を必要としている理由の一つがここにあります。春日部市の首都圏外郭放水路も、この低地の水をどう逃がすかという課題に向き合ってきた施設です。2027年はカスリーン台風から80年にあたり、国土交通省は特設サイトで当時の記録や体験者の証言を公開しています。
埼玉で東遷の跡を見られる場所
| 場所 | 市町 | 見られるもの |
|---|---|---|
| 川俣締切跡の碑 | 羽生市 | 会の川締切を伝える碑。もとは上川俣の堤防下にあり、昭和橋付近の工事で道の駅はにゅうの構内に移されたと「会の川概要」にある。締切の実際の場所はそれより東側とされる |
| 会の川 | 羽生市・加須市 | 旧利根川の流れの一つ。今は用水路と排水路を兼ねた小さな川で、両岸の自然堤防の上に加須の市街地が広がる |
| 新川通の堤防 | 加須市 | 1621年に開削された直線の流路。1947年のカスリーン台風で決壊した場所でもある |
| 権現堂堤 | 幸手市 | 廃川になった権現堂川の堤。今は桜とあじさいの名所。東武日光線 幸手駅から徒歩約30分、またはバス(五霞町役場行き)で約10分「権現堂入口」下車 |
車で回るなら、羽生の道の駅はにゅうで碑を見て、利根川の堤防沿いを東へ進み、加須の新川通を経て幸手の権現堂堤へ、という順に川下へ下ると、東遷の流れを体で追えます。堤防の上から北を見れば今の利根川、南を見れば平らな低地。南に広がる低地は川面より低く、堤防が切れれば水は1947年のように南へ向かいます。権現堂堤の季節ごとの見どころは権現堂桜堤の見頃カレンダー、道の駅はにゅうの営業時間は埼玉の道の駅一覧にまとめています。
よくある質問
Q. 「東遷」は何と読みますか?
A. 「とうせん」です。利根川の流れを東へ遷(うつ)した、という意味です。
Q. 荒川も流れを変えたのですか?
A. はい。1629年(寛永6年)、熊谷市久下付近で荒川を締め切り、和田吉野川・市野川を通じて入間川へ流れを移したとされます(荒川の西遷)。鴻巣市・吉見町の広い河川敷も、付け替え後の荒川の歴史と関係しています(日本一の川幅はなぜ鴻巣に?)。
Q. 東遷で江戸の水害はなくなったのですか?
A. なくなってはいません。江戸川への分流や堤防の決壊による洪水はその後も起き、明治以降も改修が続きました。1947年のカスリーン台風では東京まで浸水しています。
出典・参考にした資料
- 国土交通省 利根川上流河川事務所「利根川の東遷」
- 国土交通省 関東地方整備局 資料(利根川東遷の年表)
- 利根川上流河川事務所「カスリーン台風」・カスリーン台風被害から80年 特設サイト
- 羽生市「新郷の指定文化財」(川俣締切跡)
- 「会の川概要」(2022年)
- 権現堂桜堤 公式サイト「よくある質問」
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