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本多静六とは?|日比谷公園と4分の1貯金の久喜の偉人

本多静六とは?日比谷公園の設計、4分の1天引き貯金、秩父の山を県に寄付。イチョウの木と硬貨のイラスト 歴史・文化・雑学

日比谷公園、明治神宮の森、そして地元の大宮公園。どれも一人の埼玉出身者が深く関わっています。久喜市菖蒲町に生まれた林学者、本多静六(ほんだ・せいろく、1866〜1952)です。名前は知らなくても、その仕事にはどこかで触れているはずです。

この記事の結論:本多静六は日本初の林学博士で、日比谷公園の設計を皮切りに数百ともいわれる全国の公園づくりに関わった「日本の公園の父」。給料の4分の1を天引きで貯める倹約術で財を築き、秩父の山林約2,600haを埼玉県に寄付しました。その山の収益から生まれた奨学金は、いまも埼玉の学生に貸し出されています。記念館(久喜市菖蒲行政センター5階)は入館無料です。

本多静六の年表。1866年久喜市菖蒲町河原井に生まれる、1884年東京山林学校に50人中50番で入学し首席で卒業、1890年ドイツ留学、1899年日本初の林学博士、1901年日比谷公園の設計担当、1915年明治神宮の森づくり、1921年大宮公園の改良計画、1930年秩父の山林2,632haを埼玉県に寄付、1952年死去、1954年奨学金の貸与開始、2027年4月久喜市に記念公園が誕生予定
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林学博士・公園設計・寄付——本多静六は何をした人?

本多静六の仕事は幅が広く、ひとことで説明しにくい人物です。整理すると、3つの顔があります。

1つめは林学者。明治32年(1899)に日本で初めて林学博士の学位を取り、翌年から東京帝国大学の教授として森林の研究と人材育成を担いました。2つめは公園の設計者。日比谷公園を最初に、明治・大正・昭和の約35年間で大小数百ともいわれる公園の設計や改良に携わり、国立公園の創設にも力を尽くしました。3つめは倹約家で寄付の人。独自の貯金法で大きな財産を築き、その多くを奨学金などの形で社会に返しました。生涯に書いた本は360冊あまりにのぼります。

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久喜の農家の子が「50人中50番」から首席になるまで

静六は慶応2年(1866)、南埼玉郡河原井村(いまの久喜市菖蒲町河原井)の折原家に、6番目の子として生まれました。家は代々名主を務める裕福な農家でしたが、9歳のときに父が急死し、多額の借金が残ります。暮らしは一変しました。

それでも学問をあきらめず、14歳で元岩槻藩塾長の島村泰のもとに書生として住み込みます。農閑期の半年は東京で勉強し、農繁期の半年は村に戻って田畑と米つきを手伝う。そんな生活を3年続けました。

明治17年(1884)、東京山林学校に入学。合格者50人のうち50番目、つまり最下位での入学でした。ところが努力を重ねて卒業時には首席となり、銀時計を授けられています。在学中に本多晋の娘・銓子(せんこ)と結婚して婿養子に入り、「本多」姓になりました。銓子は日本で4人目の公認女医です。卒業後はドイツへ渡り、4年の予定だった留学を2年で終えて博士号を取って帰国しました。

のちに静六が残した「人生即努力、努力即幸福」という言葉は、この若い日の経験から生まれたものです。

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日比谷公園はなぜ本多静六が設計したの?

日本初の洋式公園として明治36年(1903)に開園した日比谷公園。実は最初、設計を担当していたのは東京駅の設計で知られる建築家・辰野金吾でした。誰も洋式公園を作ったことがない時代です。たまたま辰野を訪ねた静六がドイツの公園の話をしたところ、適任だと推されて、明治34年(1901)、34歳で設計担当になりました。

静六自身も公園は専門外で、苦労の連続でした。東京市議会からは「門や扉がないと花が盗まれる」「池が身投げの名所になる」と批判が出ます。静六は「花が盗まれないくらい公共心を育てる場にする」と答え、池は周りを浅瀬にして飛び込めない形にすると説明して、ようやく着工の許可を得ました。

「首かけイチョウ」の話
日比谷公園の大イチョウは、もとは日比谷交差点の近くに立っていた樹齢500年ほどの木です。道路の拡張で切られそうになったとき、静六が引き取って移植したいと申し出ました。東京市は「植木職人も無理だと言っている」と認めません。静六が「首をかけても成功させる」と言い切って許可を取り、移植を成功させたことから、この名がつきました。久喜市の生誕地記念園には、このイチョウを接ぎ木した木が植えられています。

埼玉の大宮公園も、明治神宮の森も

静六の仕事は埼玉にも残っています。明治17年(1884)に開園した大宮公園は、大正10年(1921)に静六と田村剛がまとめた「氷川公園改良計画」で本格的な整備が進みました。いま県内屈指の桜の名所になっている公園の骨格は、このときにできたものです。すぐ隣の氷川神社や盆栽村と合わせて歩くと、大宮の緑の成り立ちが見えてきます。

もう一つの代表作が、東京・渋谷の明治神宮の森です。大正4年(1915)、48歳の静六は造営局の参与として森づくりの中心を担いました。もとは畑が広がる土地です。静六らはシイやカシ、クスノキなど土地に合った常緑広葉樹を選び、人が手を入れなくても木々が世代交代していく森を150年かけて完成させる計画を立てました。全国から寄付された約10万本の木が約70haの境内に植えられ、故郷の河原井から贈られたクスノキはいまも元気に育っています。森は計画より早く育ち、100年たった今では天然の森と見分けがつかない姿になっています。

「4分の1天引き貯金」とは?いまの給料で計算すると

静六が今も読み継がれている理由の一つが、お金の考え方です。苦しい少年時代とドイツの恩師の教えから、「経済的に自立しなければ自分の信念も貫けない」と考え、ドイツから帰国して助教授になった直後から徹底した貯金を始めました。

中心になるのが「四分の一天引貯金」。毎月の給料の4分の1を、使う前に先に貯金してしまう方法です。欲しいものがあれば「買ったつもり」になってお店に預けたと考える「ツモリ貯金」、原稿の下書きはチラシや封筒の余白に書く、風呂の水位に印をつけて入れすぎない、といった工夫も重ねました。貯まったお金で山林や株を買い、40歳のころには貯金の利子や株の配当が給料を上回ったといいます。

いまの手取りに当てはめると、次のようになります(利息・運用益は含めない単純計算)。

手取り月収毎月の天引き額1年で10年で
20万円5万円60万円600万円
25万円6万2,500円75万円750万円
30万円7万5,000円90万円900万円
40万円10万円120万円1,200万円

4分の1はかなり厳しい割合です。静六の場合は、明治の大学教員という安定した収入があったことも前提にあります。そのまま真似するより、「先に取り分けてから残りで暮らす」という順番の考え方として受け取ると、今の家計にも生かしやすいはずです。

秩父の山を埼玉県に寄付——今も続く「本多静六博士奨学金」

静六が築いた財産は、最後にはほとんどが社会へ戻されました。地元・埼玉への贈り物として大きいのが、秩父の山林です。

昭和5年(1930)、静六は資産として持っていた秩父・中津川付近の山林を埼玉県に寄付しました。県の資料では面積2,632ha。条件は、木材の売却などで得た収益を、苦学する埼玉県の学生の奨学金と、奥秩父の景勝地の保護や林道の整備に使うことでした。県は昭和7年に育英基金をつくり、静六が亡くなった翌年の昭和28年に奨学金の条例を制定。昭和29年度から貸し出しが始まりました(当初は月3,000円)。

この奨学金は今も続いていて、近年の募集は無利子で月額3万円以内、入学一時金30万円以内の貸与です。これまでに延べ2,500人を超える学生が利用しています。寄付された山はいま「彩の国ふれあいの森」として一般に開放され、森林科学館で静六の紹介も見られます。

若いころには、埼玉出身の学生のための寄宿舎を東京に建てる「埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)」の設立にも尽力し、明治35年(1902)の発足後は初代舎監を務めました(初代会頭は渋沢栄一)。資金集めで渋沢栄一を訪ねた際、「自分で出さずに人に頼むのは筋違い」と断られ、その場で年収の3分の1にあたる現金を差し出して協力を取りつけた、という逸話が残っています。

埼玉で本多静六の足跡をたどれる場所

場所所在地見どころ料金・注意
本多静六記念館久喜市菖蒲町新堀38(菖蒲行政センター5階)直筆資料や遺品、公園の模型や写真、手がけた公園・観光地のポスター。妻・銓子と養父・晋の資料も常設無料。9:00〜16:30。休館は土曜・祝日(日曜と重なる祝日は開館し翌日休館)と年末年始(12月29日〜1月3日)。職員は常駐していない
本多静六博士生誕地記念園久喜市菖蒲町河原井の近く(旧国道122号沿い「道のオアシス」内)胸像と、首かけイチョウを接ぎ木した木。胸像の台座は中津川県有林の石約400㎡の小さな園
本多静六博士の森久喜市菖蒲町三箇(三崎の森公園内)明治神宮の森の考え方で平成21年に植えた県の森づくり第1号面積0.2ha・約500本
大宮公園さいたま市大宮区大正10年の改良計画で整備が進んだ桜の名所氷川神社・盆栽村と合わせて歩ける
彩の国ふれあいの森(森林科学館)秩父市中津川静六が寄付した中津川県有林。科学館で人物紹介あり奥秩父の山間部。車での訪問が現実的

記念館は行政センターの中にあるため、日曜日に行く場合は庁舎北西側の職員通用口から入ります。問い合わせは菖蒲行政センター(0480-85-1111)へ。

予定 久喜市菖蒲町台では、静六の考え方を取り入れた「(仮称)本多静六記念 市民の森・緑の公園」(約9.3ha)を、ごみ焼却の熱を使う余熱利用施設と一体で整備しています。市は2027年(令和9年)4月の誕生を予定しています。正式な愛称や開園日は市の発表で確認してください。

よくある質問

「本多静六」の読み方は?

「ほんだ せいろく」です。旧姓は折原で、結婚して本多家の婿養子になりました。

渋沢栄一とはどんな関係?

同じ埼玉出身で、仕事の上でも縁があります。ドイツ留学の帰りに見たカナダの鉄道防雪林を、日本鉄道の役員だった渋沢に提案し、青森県野辺地町で日本初の鉄道防雪林づくりにつながりました。埼玉学生誘掖会では、渋沢が初代会頭、静六が2代目会頭を務めています。

お金の本は今でも読める?

倹約や処世訓に関する著書は今も版を重ねていて、晩年の『私の財産告白』などが文庫で手に入ります。

参考:久喜市「本多静六博士顕彰事業」/埼玉県「本多静六博士〜日本の緑を育てた埼玉の偉人〜」

あわせて読みたい:渋沢栄一の生涯と深谷|生家・記念館の巡り方/大宮盆栽村はなぜ大宮に?/氷川神社はなぜ「武蔵一宮」?

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