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塙保己一とは?|ヘレン・ケラーが目標にした本庄の学者

塙保己一とは?本庄市児玉町が生んだ国学者。7歳で失明、約40年で『群書類従』666冊を完成。ヘレン・ケラーが目標にした人。積み重ねた本のイラスト 歴史・文化・雑学

見えない、聞こえない、話せないという三重の障害を乗り越えたヘレン・ケラー。彼女が子どものころから「人生の目標」にしていた日本人がいます。本庄市の農家に生まれ、7歳で光を失いながら、約40年をかけて日本の古い書物を集め、666冊の大叢書『群書類従』を世に出した学者、塙保己一(はなわ・ほきいち、1746〜1821)です。

この記事の結論:塙保己一は、いまの本庄市児玉町保木野に生まれた江戸時代の国学者です。7歳で失明し、15歳で江戸へ。34歳で決意した『群書類従』の出版を74歳で完成させました(正編666冊)。ヘレン・ケラーは母から「保己一先生はあなたの人生の目標になる方」と教えられ、昭和12年(1937)の来日で保己一の像に触れています。本庄市児玉町の塙保己一記念館は入館無料です。

塙保己一の一生と群書類従。数え年で1歳保木野村(本庄市児玉町)に生まれる、7歳病気で失明、15歳江戸へ雨富検校の弟子に、30歳塙の姓を許され塙保己一に、34歳群書類従の出版を決意、48歳和学講談所を設ける、74歳正編666冊が完成、76歳総検校となりこの年に死去。群書類従の大きさは正編666冊、続編1,185冊、版木17,244枚、ページ換算約34,000
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塙保己一はどんな人?7歳で失明した農家の子

保己一は延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村、いまの本庄市児玉町保木野の農家に長男として生まれました。幼い名前は寅之助。7歳のとき病気で目が見えなくなり、辰之助と名を改めます(年齢は数え年。以下同じ)。

15歳で江戸に出て、目の見えない人たちの組織「当道座」に入り、雨富須賀一検校の弟子になりました。当道座の人々は、鍼やあんま、琴や三味線などを仕事にするのが一般的です。ところが保己一は、どうしても学問がしたかった。16歳で師匠から学問の道に進むことを許され、歌学や神道などを学び始めます。

30歳で、師匠の本姓「塙」を名乗ることを許され、「塙保己一」となりました。38歳で、当道座で高い位にあたる「検校」に昇進しています。

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『群書類従』とは?なぜ40年もかかった?

保己一が一生をかけたのが『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』です。古い時代から伝わる歴史書や文学、記録などの中には、写本でしか残らず、このままでは失われてしまうものがたくさんありました。保己一はそうした書物を全国から集め、内容を確かめて分類し、木の板に彫って印刷できる形にまとめようと考えました。

出版を決意したのが34歳、計画を実行に移したのが41歳。完成したのは74歳のときです。決意から完成まで約40年。正編だけで666冊、のちの続編は1,185冊にのぼります。保己一は「世のため、後のため」という思いでこの仕事を進めたといわれます。

666冊はどのくらいの量?
『群書類従』を印刷するための版木は1万7,244枚。両面に彫られているので、ページにするとおよそ3万4,000ページ分になります。この版木はいまも東京・渋谷の温故学会会館(塙保己一史料館)に保管されていて、明治42年(1909)に文部省の倉庫で見つかったものです。

この間、44歳で水戸藩の『大日本史』の校正に加わり、48歳で国学を教え研究する「和学講談所」を設けて、老中・松平定信から「温故堂」の名を与えられました。そして76歳の文政4年(1821)2月、目の見えない人の組織で最高位の「総検校」となり、同じ年の9月12日に亡くなりました。

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ヘレン・ケラーはなぜ保己一を目標にした?

埼玉県の紹介によると、ヘレン・ケラーは母親から「日本の塙保己一先生は、あなたの人生の目標となる方ですよ」と教えられて育ちました。目が見えなくても大きな仕事を成し遂げた人がいる。その話は、困難の中にいた少女にとって大きな支えになったのでしょう。

昭和12年(1937)4月26日、初めて日本を訪れたヘレン・ケラーは、渋谷の温故学会を訪ね、『群書類従』の版木にも手で触れています。保己一が使い古した質素な机と、首をかしげた姿の保己一の像に触れ、「日本の訪問の中で最も意義深いものでした」と語っています。埼玉会館での講演では、つらく苦しいときも、この埼玉ゆかりの保己一先生を目標に頑張ることができたから今の私がある、という趣旨の話をしたと伝えられています。

いまも続く「塙保己一賞」
埼玉県は保己一の名を冠した「塙保己一賞」で、障害がありながら社会で活躍している人や、障害のある人を支える活動に力を尽くした個人・団体を表彰しています。

塙保己一の一生を年齢で追う

年齢(数え)年できごと
1歳延享3年(1746)保木野村(本庄市児玉町)の農家に生まれる
7歳宝暦2年(1752)病気で失明
15歳宝暦10年(1760)江戸へ出て雨富検校の弟子に
16歳宝暦11年(1761)学問の道に進むことを許される
30歳安永4年(1775)勾当に昇進。「塙」の姓を許され、塙保己一に
34歳安永8年(1779)『群書類従』の出版を決意
38歳天明3年(1783)検校に昇進
41歳天明6年(1786)出版計画を実行に移す
48歳寛政5年(1793)和学講談所を設ける
74歳文政2年(1819)『群書類従』正編666冊が完成
76歳文政4年(1821)総検校となり、9月12日に死去

本庄で保己一の足跡をたどるには?

生まれ故郷の本庄市児玉町には、保己一ゆかりの場所がまとまっています。記念館は「アスピアこだま」の中にあり、遺品や関係資料(埼玉県指定文化財)を展示しています。生家(国指定史跡)と墓は、保木野地区にあります。生家や墓への行き方・駐車場は、出かける前に記念館(下の電話)で確認しておくと安心です。東京の渋谷には、版木を保管する温故学会会館(塙保己一史料館)もあります。

施設塙保己一記念館(アスピアこだま内)
住所本庄市児玉町八幡山368
開館時間9:00〜16:30
休館日月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日〜1月3日)
入館料無料
電車JR八高線「児玉駅」から徒歩10分
車関越道「本庄児玉IC」から約15分
電話0495-72-6032

注意 記念館は月曜休館です。団体で見学する場合は事前の申し込みが必要です。

よくある質問

「塙保己一」の読み方は?

「はなわ ほきいち」です。18歳で「保木野一(ほきのいち)」と名を改め、30歳で「塙」の姓を許されたときに「塙保己一」となりました。もとになっているのは故郷・保木野村の名前です。

群書類従はいまでも読める?

活字にした版が刊行されていて、大きな図書館などで読むことができます。版木そのものは渋谷の温故学会会館に保管されています。

なぜ「検校」と呼ばれるの?

検校は、江戸時代に目の見えない人たちがつくっていた組織「当道座」の高い位の名前です。保己一は38歳で検校になり、亡くなる年には最高位の総検校になりました。

参考:埼玉県「塙保己一」/埼玉県「ヘレン・ケラーと塙保己一」/埼玉県「地域めぐり(本庄市児玉町八幡山)」/埼玉県議会 図書室委員会の視察報告(温故学会)/本庄市「塙保己一記念館のご案内」

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