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武蔵野線はもともと貨物線?|東京を避けて走る理由

都心を囲むように外側を半円に走る線路と貨物列車のイラストに「武蔵野線はもともと貨物線?」の文字 歴史・文化・雑学

3行でわかる武蔵野線

  • 武蔵野線は、都心の山手貨物線を通らずに東海道方面と東北・常磐方面を結ぶ「貨物列車のバイパス」として計画された路線です
  • 1973年4月に府中本町〜新松戸が開業したとき、旅客列車は貨物列車の合間を縫って日中40分に1本。1978年に西船橋まで延びました
  • 乗り換え駅でほかの路線の快速が止まらないのは、用地を取りやすい市街地の外れで交わるようにルートを引いた名残です。いまも全線で毎日貨物列車が走っています

南浦和、武蔵浦和、東所沢、南越谷。埼玉の東西をつなぐ武蔵野線は、県民にとって「都心を通らずに横移動できる」便利な路線です。それなのに、乗り換え駅に快速が止まらなかったり、駅と駅のあいだが長かったり、ときどき不思議な使いにくさがあります。

その理由は、生まれにあります。武蔵野線は、もともと人ではなく貨物を運ぶために計画された線でした。この記事では、計画から開業、そして通勤路線へと変わっていくまでを年表でたどり、ふだん乗っていて感じる「なぜ?」を解いていきます。

武蔵野線の模式図。都心と山手貨物線を避けて、府中本町から西国分寺、新秋津、南浦和、新松戸、西船橋へと外側を回り、中央線・西武池袋線・東北線・常磐線・総武線と交わる。埼玉県内に新座貨物ターミナルと越谷貨物ターミナル。府中本町から鶴見方面へは貨物専用の武蔵野南線が続く
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そもそも、なぜ東京を避ける線路が必要だったの?

戦後の高度成長期、東京には東海道線、中央線、東北線、常磐線、総武線と放射状に線路が延びていました。旅客だけでなく、全国を行き来する貨物列車も、この放射状の線路を通って東京に集まり、山手線の外側を並んで走る「山手貨物線」を通って別の方面へ抜けていました。

ところが、高度成長で旅客も貨物も急増し、都心の線路はどこもパンク寸前になります。1955年(昭和30年)、国鉄は輸送改善の計画をまとめ、東海道線や山手貨物線、中央線、東北線、常磐線の線路の足りなさを打開するため、貨物の重要幹線として「東京外郭環状線」を構想しました。都心に入らず、外側をぐるりと回って各方面をつなぐ。これが武蔵野線の原型です。

実は環状線の構想自体はもっと古く、1927年(昭和2年)の鉄道敷設法にはすでに「東京外環貨物線」として盛り込まれていました。戦争で立ち消えになっていた計画が、戦後の輸送の行き詰まりで一気に現実味を帯びたわけです。

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計画はどう決まって、いつ開業したの?

戦後、真っ先に声を上げたのは埼玉県でした。1952年(昭和27年)、県は県南部の東西を結ぶため、所沢から浦和、流山を経て我孫子に至る路線を国に要望しています。1955年には埼玉県などが期成同盟をつくり、この路線を仮に「玉葉線」と呼びました。1957年(昭和32年)、鉄道建設審議会で玉葉線の建設が決まります。

どこを通すかでは、沿線の市町が激しく誘致を競いました。1956年には浦和市の要望を受けた県が、柏〜流山〜吉川〜越谷〜浦和〜足立(現在の志木市)〜所沢〜立川を通って南武線につなぐルートを陳情。大宮・岩槻・春日部などは東武野田線を国鉄が買い取って使う「大宮ルート」を、川口市は草加〜川口〜戸田を通る「川口ルート」を求めました。最終的に1964年4月、運輸大臣が松戸〜吉川〜越谷〜浦和〜所沢〜国分寺〜府中を経由地とする基本計画を示しました。路線名は、その後「武蔵野線」に改められます。

工事は日本鉄道建設公団が進め、1965年(昭和40年)12月には南浦和駅で起工式が開かれました。そして1973年(昭和48年)4月1日、府中本町〜新松戸の57.5kmが開業します。1976年には府中本町から南へ、鶴見までの「武蔵野南線」が貨物専用線として開業し、1978年(昭和53年)には新松戸〜西船橋が延びて、いまの形がそろいました。

開業時は40分に1本

開業したころの旅客列車は、貨物列車の合間に走らせるダイヤで、昼間は40分間隔、朝夕のラッシュでも15〜20分間隔でした。主役はあくまで貨物で、旅客は「空いている時間に乗せる」位置づけだったことがよくわかります。

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乗っていて感じる「不便さ」は、貨物線だったせい?

いちばんよく聞くのが「乗り換え駅に快速が止まらない」という不満です。ただしこれは武蔵野線の快速の話ではなく、交わる側の路線の話です。新松戸では常磐線快速、西船橋では総武線快速、南浦和では宇都宮線・高崎線の電車が、武蔵野線の乗り換え駅を通過していきます。

こうなったのは、武蔵野線が貨物のバイパスとして計画され、市街地に乗り入れる必要がなかったからです。すでに市街地になっていた主要駅の近くは用地の買収にお金がかかり、工期も延びる。そこで、既存の主要駅を避けて少し外側で各路線と交わるように線が引かれました。開業後に沿線が住宅地になると、新松戸や南浦和などで快速の停車を求める声が上がりましたが、ホームを増やす土地を確保できず、話はなかなか進んでいません。新松戸では、土地区画整理事業とあわせてホームを増やす構想が出ています。

ほかにも、武蔵野線のよく言われる使いにくさは、貨物線として設計された名残で説明できます。

駅と駅のあいだが長い

  • 理由:人を乗せるための駅を細かく置く前提がなかった
  • いま:府中本町〜西船橋71.8kmに旅客駅26。平均すると約3kmおき

府中本町から先の「南線」に乗れない

  • 理由:府中本町〜鶴見の武蔵野南線は、はじめから貨物専用線として造られた
  • いま:旅客化の計画は2000年の国の答申で外れ、ふだんは貨物列車と一部の臨時列車だけが走る

夜中も線路が騒がしい

  • 理由:いまも全線で毎日、貨物列車が走る
  • いま:東海道方面と東北方面を結ぶ首都圏の貨物の大動脈

いまの貨物列車の流れをたどると、武蔵野線の役割がよくわかります。東海道方面からの貨物列車は、鶴見から地下の武蔵野南線に入り、府中本町で武蔵野線へ。埼玉県内では新座貨物ターミナルや越谷貨物ターミナルを通り、南流山の先で常磐線や隅田川駅の方面へ、西船橋からは京葉線の方面へと抜けていきます。府中本町からは南武線を経て中央線の方面にもつながっています。東京の中心を一度も通らずに、関東の各方面を結んでいるわけです。

逆に言えば、この「貨物線らしさ」が、のちに旅客の増発を支えることにもなりました。武蔵野線ができて山手貨物線を走る貨物列車が減ったおかげで、山手貨物線の線路を使って埼京線や湘南新宿ラインといった旅客列車を走らせられるようになったのです。武蔵野線は、自分が貨物を引き受けることで、都心の旅客線を生み出した路線でもあります。

貨物線から通勤路線へ、どう変わってきたの?

1970年代後半から、トラック輸送の広がりで貨物列車が減り、ダイヤに余裕が生まれて旅客列車が増やされていきます。1984年に国鉄がヤードと呼ばれる操車場での貨物の組み替えをやめると、東所沢駅の近くにあった巨大な武蔵野操車場も役目を終え、1986年に廃止されました。東所沢駅の周辺は長く貨物の町でしたが、いまは駅の東側に、旧所沢浄化センターの跡地を使ったところざわサクラタウン(2020年開業)ができ、景色が大きく変わりました。

1988年に京葉線との直通運転が始まると日中は1時間に5本に増え、1991年からは混雑時に8両編成も走るようになりました。沿線には住宅地が広がり、2008年に越谷レイクタウン駅、2012年に吉川美南駅と、新しい駅も生まれています。開業時に40分に1本だった路線は、いまや埼玉・千葉・東京の郊外を結ぶ欠かせない通勤路線です。

区間府中本町〜西船橋 71.8km(旅客)。府中本町〜鶴見は貨物専用の武蔵野南線
開業1973年4月1日 府中本町〜新松戸/1978年 新松戸〜西船橋
埼玉県内の主な駅東所沢、新座、北朝霞、西浦和、武蔵浦和、南浦和、東浦和、東川口、南越谷、越谷レイクタウン、吉川、吉川美南、新三郷、三郷
県内の貨物駅新座貨物ターミナル、越谷貨物ターミナル

次に武蔵野線に乗ったら、すれ違う長いコンテナ列車に目を向けてみてください。あなたが乗っている線路は、その貨物列車のためにつくられた道です。都心を通らずに埼玉を横に移動できる便利さは、半世紀前に「貨物を東京に入れない」と決めた計画のおまけとして生まれたものでした。

武蔵野線の年表

1927年鉄道敷設法に「東京外環貨物線」
1955年国鉄が貨物の重要幹線「東京外郭環状線」を構想。県などの期成同盟が「玉葉線」と呼ぶ
1957年鉄道建設審議会で建設が決まる
1964年松戸〜浦和〜所沢〜府中のルートで建設を指示
1965年南浦和駅で起工式
1973年府中本町〜新松戸が開業(日中40分に1本)
1976年武蔵野南線(府中本町〜鶴見・貨物専用)が開業
1978年新松戸〜西船橋が開業し全線がそろう
1986年武蔵野操車場が廃止
1988年京葉線と直通運転、日中1時間5本に
2008・2012年越谷レイクタウン駅、吉川美南駅が開業

参考資料

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