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さいたま新都心はなぜできた?|操車場跡に国の18機関

線路が広がる操車場の上に高層の合同庁舎とアリーナの屋根が並ぶイラストと「さいたま新都心はなぜできた?」の文字 歴史・文化・雑学

3行でわかるさいたま新都心

  • さいたま新都心は、役目を終えた国鉄の大宮操車場の跡地を使い、東京に集まりすぎた国の役所を分散させるためにつくられた街です
  • 1989年に国の機関の移転が決まり、2000年に18機関・約6,800人が東京などから移ってきて、5月5日にまちびらきしました
  • いまは災害時に首都圏を支える広域防災拠点でもあり、2031年度にはさいたま市役所も移ってくる予定です

京浜東北線でさいたま新都心駅に近づくと、線路の西側、さいたまスーパーアリーナの隣に、31階建てと26階建ての2棟の高層ビルが見えてきます。あれが国の役所が入る「さいたま新都心合同庁舎」です。財務局、国税局、警察局、地方整備局。ふだん東京の霞が関にあるイメージの役所の「関東の出先」が、なぜ大宮と浦和のあいだに集まっているのでしょうか。

答えをひとことで言えば、「東京に集中しすぎた機能を分けたい国」と「首都圏の中で存在感を高めたい埼玉」の思惑が、たまたま空いた広大な鉄道用地の上で重なったからです。この記事では、国土交通省の資料などをもとに、操車場の時代からまちびらき、3市合併、そして市役所の移転計画までを順にたどります。

1927年の大宮操車場開設、1984年の機能停止、1986年の業務核都市、1988年の多極分散型国土形成促進法、1989年の国の機関移転決定、2000年の18機関移転とまちびらき、2001年の3市合併、2016〜17年の小児医療センターと赤十字病院の開院、2031年度の市役所移転予定を並べた年表
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新都心の場所は、もともと何だったの?

さいたま新都心の土地の多くは、国鉄の「大宮操車場」でした。1927年(昭和2年)8月に開設された、貨物列車を行き先ごとに組み替えるための広い構内です。全国から集まる貨車をここで仕分け直す、首都圏北部の物流の要でした。

ところが、トラック輸送の広がりとともに鉄道貨物は減り、1984年(昭和59年)2月に操車場としての機能を停止します。こうして大宮駅のすぐ南に、線路が何本も並ぶだだっ広い土地がぽっかり空きました。隣接する片倉工業の工場跡地とあわせて、これが新都心の舞台になります。

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なぜ国の役所が埼玉に来ることになったの?

1980年代、東京への一極集中は大きな問題になっていました。人も会社も役所も都心に集まり、通勤ラッシュや地価の高騰が止まらない。そこで国は、東京の周りに仕事の拠点となる街を育てる方針をとります。1986年(昭和61年)の第4次首都圏基本計画で、浦和市と大宮市は「業務核都市」に位置づけられ、同じ計画には大宮操車場地区の名前も書き込まれました。

流れを決定づけたのが、国の機関そのものを東京の外へ移すという構想です。1987年に竹下首相が国の機関の移転を具体化するよう指示し、1988年には多極分散型国土形成促進法が成立。そして1989年(平成元年)8月、14の政府機関と2つの特殊法人を大宮操車場跡地へまとめて移すことが決まりました。

埼玉県の側にも事情がありました。県と周辺の市は1980年に「埼玉中枢都市首長会議」をつくり、自前の中心地を育てる構想を温めていました。当時、神奈川には横浜のみなとみらい、千葉には幕張と、東京の隣県には大規模な新しい街づくりが進んでいたのに、埼玉にはそれがなかったのです。国の機関の受け入れは、その遅れを一気に取り戻すチャンスでした。

「なぜ操車場跡だったのか」の答え

国の機関を何千人単位でまとめて受け入れるには、都心から近く、鉄道でつながり、しかもまとまった広さの土地が必要です。大宮駅の隣で、京浜東北線・宇都宮線・高崎線が並んで走り、すでに国鉄の土地として一つにまとまっていた操車場跡は、その条件をすべて満たしていました。国の資料が理由を一つにまとめて示しているわけではありませんが、これだけの条件がそろう土地は首都圏でもまれでした。

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実際にどんな機関が移ってきたの?

工事は1991年11月に始まり、2000年(平成12年)2月から国の機関の引っ越しが始まりました。最終的に移ってきたのは10省庁18機関(省庁再編後の数え方では9省庁18機関)、職員は約6,800人にのぼります。国土交通省の資料に載っている、閣議決定に基づいて移った18機関を分野ごとにまとめると次のとおりです(名称は資料の表記。省庁再編などでその後名前が変わったものもあります)。

お金・税関東財務局、関東信越国税局、関東信越国税不服審判所
治安・司法・防衛関東管区警察局、東京矯正管区、関東地方更生保護委員会、東京防衛施設局
国土・産業関東地方整備局、関東経済産業局、関東農政局、肥飼料検査所、農林水産消費技術センター、水資源開発公団(現・水資源機構)
くらし・行政・郵政関東信越厚生局、関東管区行政評価局、郵政事業の3機関(関東監査本部・関東支社・東京貯金事務センター)

このほか、人事院関東事務局や埼玉労働局なども新都心の合同庁舎に入っています。

2000年4月1日にさいたま新都心駅が開業し、5月5日にまちびらきの式典が開かれました。9月にはさいたまスーパーアリーナとけやきひろばもオープンし、役所の街と、人が集まる街が同時に動き出しました。

新都心は災害のときにどんな役割を持つの?

国の出先機関が一か所に集まっていることには、災害時の強みもあります。関東地方整備局は、10省庁18機関が集まるさいたま新都心を「広域防災拠点」と位置づけています。合同庁舎は十分な耐震性を持ち、地震や水害の際に対策本部となる災害対策室や、2号館屋上のヘリポートを備えています。

首都直下地震などで都心の機能が止まったとき、関東一円の道路や河川、財政、警察の指揮を、都心から25kmあまり離れた場所で続けられる。役所を東京の外へ出すという1980年代の決断は、いまでは「首都圏のバックアップ」という意味も持つようになっています。

さいたま市の誕生と、新都心は関係あるの?

大いにあります。新都心の敷地は、旧浦和市・旧大宮市・旧与野市の3つの市にまたがっていました。一つの街なのに、場所によって市役所が違う。3市は合併の協議を進め、新都心のまちびらきの翌年、2001年5月にさいたま市が誕生します。2003年に政令指定都市になると、新都心の一角は中央区の「新都心」という町名になりました。

さいたま市自身も、新都心を市の誕生の象徴であり、市のほぼ中央にある拠点と位置づけています。浦和と大宮の長い張り合いのちょうど真ん中に生まれた新しい街が、合併後の市の「へそ」になったわけです。そして2031年度には、浦和区常盤にある市役所が新都心へ移る計画が進んでいます(くわしくは市役所移転の記事で)。

計画どおりの街になったの?

順調なことばかりではありませんでした。まちびらきのころは、まだ空き地が目立つ区画も多く残っていました。地上デジタル放送用の新しい電波塔の誘致にも名乗りを上げましたが、2006年に墨田区が選ばれ、それがのちの東京スカイツリーになりました。

それでも街は少しずつ埋まっていきました。2004年に商業施設コクーン新都心が開業し(2015年に「コクーンシティ」として拡大)、2016〜2017年には埼玉県立小児医療センターとさいたま赤十字病院が新都心に移って開院しました。官庁・商業・医療・イベントがそろったいまの姿は、まちびらきから20年近くかけて形になったものです。

ちなみに、大宮操車場は完全に消えたわけではありません。線路の一部はいまも「大宮操車場」として残り、新都心の工事中だった1997〜98年には、工事で出た残土を運び出すために臨時駅「大宮操駅」として一時的に復活したこともありました。

なお、さいたまスーパーアリーナは2026年4月から「GMOアリーナさいたま」の愛称になりました。2026年1月14日から2027年3月末までは改修のため休館する予定と、埼玉県が案内しています。

さいたま新都心の基本データ

場所さいたま市中央区・大宮区(旧大宮操車場と片倉工業の工場跡地)
最寄り駅JR京浜東北線・宇都宮線・高崎線「さいたま新都心駅」、JR埼京線「北与野駅」
まちびらき2000年5月5日
国の機関移転時18機関、職員約6,800人(合同庁舎1号館31階・2号館26階)
都市再生緊急整備地域約47.4ha(2003年7月指定)
これからの予定2027年3月末までアリーナ改修休館(予定)、2031年度に市役所移転(予定)

次にさいたま新都心駅で降りたら、駅の東西をつなぐ歩行者デッキから、線路の広がりを眺めてみてください。いま電車が走っている線路のすぐ横に、かつて何十本もの貨物線が並んでいた。そう思って高層ビルを見上げると、この街ができた理由がぐっと実感できるはずです。

参考資料

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