3行でわかる大宮盆栽村の始まり
- きっかけは1923年の関東大震災。駒込・巣鴨・本郷・千駄木などで盆栽を育てていた東京の業者が、被災を機に移住先を探し、千駄木の盆栽園「清大園」の清水利太郎が先頭に立ちました
- 大宮が選ばれた決め手は、盆栽向きの関東ローム層の赤土と、井戸を掘りやすい豊富な地下水。大宮公園の北に広がる松林が新しい村になりました
- 1925年に村が生まれて100年あまり。「盆栽10鉢以上」「二階建て禁止」などの約束がつくった景色が、いまの北区盆栽町に残っています
さいたま市北区の盆栽町は、世界中から盆栽好きが訪ねてくる「盆栽の聖地」です。ただ、盆栽づくりはもともと江戸・東京の職人の仕事でした。それがなぜ、大宮の松林に村ごと移ってきたのか。答えは、100年前の大地震と、植木職人ならではの「土と水」へのこだわりにあります。
この記事では、内閣府の防災広報誌やさいたま市の資料をもとに、盆栽師たちが東京を離れた理由、数ある候補地から大宮を選んだ決め手、村の約束、戦争を越えて世界に知られるまでをたどります。最後に、歴史を知ったうえで歩きたい盆栽町の回り方も紹介します。

盆栽師たちは、なぜ東京を離れたの?
大正時代、東京で盆栽を育てて売る人々は、駒込・巣鴨・本郷といった現在の文京区・豊島区のあたりに集まっていました。盆栽村の開拓を先導し、村の最初の住人になった清水利太郎(号・瀞庵、1874〜1955)は、駒込千駄木の団子坂薮下(いまの文京区)で盆栽園「清大園」を営んでいました。明治10年代に菊人形の興行から盆栽専業に移り、業界を引っ張ってきた人物だと、大宮盆栽美術館は紹介しています。
ところが東京は急速に都市化と工業化が進み、工場の煙で空気が汚れていきました。何十年もかけて一本の木を育てる盆栽にとって、煤煙は大敵です。そこへ1923年(大正12年)9月の関東大震災が襲い、盆栽業者たちも被災しました。
「どうせ建て直すなら、盆栽に合う土地へ」。内閣府の防災広報誌『ぼうさい』は、彼らが盆栽に適した土と水に恵まれた広い土地への移住を考え、東京の郊外や神奈川、千葉なども探した末に大宮を選んだと紹介しています。震災からの復興を、ただ元に戻すのではなく、より良い場所でやり直す機会に変えた例として取り上げられているのです。
候補地の中で、なぜ大宮が選ばれたの?
決め手は、なんといっても土と水でした。一つは、盆栽に向く関東ローム層の赤土が手に入ること。もう一つは、地下水が豊富で井戸を掘りやすいことです。鉢の中の小さな土で木を生かし続ける盆栽は、土の質と毎日の水やりがすべてと言っても大げさではありません。
移住先になったのは、大宮公園の北側に広がる「源太郎山」と呼ばれた松林でした。内閣府の広報誌が紹介する明治33年の地図では、松林や雑木林の記号が点々と並ぶだけの土地です。都会の煙が届かず、きれいな空気があり、まとまった広さを確保できる。職人たちにとっては、理想の条件がそろっていたわけです(上の図の①②が決め手、③④がそれを後押しした条件です)。
なお、村が開かれた一帯の多くは、当時の大宮町ではなく、隣の大砂土村(おおさどむら)の土呂・西本郷にあたる土地でした。いまでこそ「大宮盆栽」と呼ばれますが、村が生まれたのは大宮の町はずれの林の中だったのです。
「源太郎山」は山ではない
名前に「山」とつきますが、地形としての山ではありません。武蔵野では平地の林を「ヤマ」と呼ぶことがあり、ここも松林を指す呼び名と考えられます。盆栽町を歩くと土地はほぼ平らで、名残の松があちこちに立っています。
盆栽村にはどんな「約束」があったの?
村は1925年(大正14年)に自治共同体として始まり、1928年(昭和3年)には、そのころの住民20名で「盆栽村組合」がつくられました。組合が定めた居住の約束が、いまでもよく知られる次の4つです。
どれも理にかなっています。二階建てを禁じたのは、隣の庭に日陰をつくらないため。日当たりは盆栽の生命線です。生垣にしたのは、ブロック塀よりも風通しがよく、村全体が緑の景色になるから。そして「門戸を開放する」は、誰でも庭先の盆栽を見られるようにするという、商売と文化の両方にかなう決まりでした。
道路も計画的につくられ、幅は6間(約10.8m)。区画は300〜1,500坪と広く、沿道には桜や柳、銀杏などが植えられました。いまも盆栽町には「さくら通り」「やなぎ通り」「かえで通り」「けやき通り」「もみじ通り」「しで通り」と木の名前がついた通りが残り、「盆栽四季の道」と呼ばれています。
盆栽村はどうやって有名になったの?
村の評判は早くから広まり、内閣府の広報誌によれば、皇室や政財界の人々、海外の要人も訪れたといいます。開村10年を祝う事業として1934年(昭和9年)に計画された「清水瀞庵翁紀功碑」は、2年がかりの準備を経て1936年(昭和11年)11月3日に除幕されました。碑はいまも、漫画会館の北50mほどにある植竹稲荷神社の境内に立っています。昭和の初めには、森鴎外の長男で医学者の森於菟も村に住んでいました。最盛期には盆栽園が30軒を超え、盆栽は大宮の地場産業として根づいていきます。
ただ、順風満帆だったわけではありません。戦争が始まると、盆栽はぜいたく品と見られ、若い職人の出征や廃業も重なって村は一時衰えました。戦後、復興とともに愛好家が戻り、1970年の大阪万博では、日本政府の盆栽水石展示に出品された盆栽のうち最も多くが大宮盆栽村のものだったと、さいたま市は紹介しています。
世界とのつながりを決定づけたのが、1989年に大宮市(当時)で開かれた第1回世界盆栽大会です。32の国から約1,200人の愛好者が集まりました。2017年には第8回大会がさいたまで開かれ、関連イベントを含めて約12万人が訪れています。英語でもそのまま「BONSAI」と呼ばれるほど海外に広まったこの文化の、いわば里帰りの舞台が盆栽村でした。
「大宮の盆栽」はさいたま市の伝統産業にも指定され、2010年には村のすぐそばに、公立としては世界初の盆栽美術館「さいたま市大宮盆栽美術館」が開館しています。
100年で何が残り、何が変わった?
村の盆栽園は、最盛期の30軒あまりから大きく減りました。それでも、開村の年から続く蔓青園(まんせいえん)をはじめ、九霞園(きゅうかえん、1929年開園)、藤樹園(とうじゅえん、1931年開園)、芙蓉園(ふようえん、1939年開園)、江戸時代からの流れをくむ清香園(せいこうえん)などが、いまも盆栽町で営みを続けています。さいたま観光国際協会の散策コースで紹介されている村内の園は、この5つです。
町名にも村の歴史が刻まれています。1940年に大宮市が発足すると村は市の一部になり、やがて正式な町名として「盆栽町」が生まれました。その年は資料によって異なり、1940年とするもの、1942年とする内閣府の広報誌、1957年の町名地番変更とするものがあって、はっきりしません。2001年のさいたま市誕生、2003年の政令指定都市移行を経て、いまの住所は「さいたま市北区盆栽町」です。
約束の効力は時代とともに薄れ、いまは閑静な住宅地のなかに盆栽園が点在する町になりました。それでも、広い道幅、低い家並み、生垣の続く通りを歩くと、100年前に職人たちが描いた「盆栽のための村」の骨格が、ちゃんと残っているのがわかります。
歴史を知ってから歩く、盆栽町の回り方
盆栽町は、JR宇都宮線の土呂駅と東武アーバンパークラインの大宮公園駅のあいだにあります。土呂駅から入り、大宮公園駅へ抜けると、美術館→盆栽園→漫画会館と、村の歴史を順にたどれます。
- スタートJR土呂駅 東口
大宮盆栽美術館まで徒歩5分。
- 約60分さいたま市大宮盆栽美術館
名品の盆栽と、村の歴史を伝える展示。庭園には常時約60点。先にここで「見方」を知っておくと、盆栽園がぐっと面白くなります(館内の様子は大宮盆栽美術館を訪ねた記事で紹介しています)。
- 約60分盆栽四季の道と盆栽園
木の名前がついた通りを歩き、営業中の盆栽園をのぞきます。休憩は盆栽四季の家(休憩室は無料・9〜17時)で。
- 約30分さいたま市立漫画会館
盆栽村に晩年を過ごした漫画家・北沢楽天の邸宅跡に建つ、日本初の公立の漫画美術館。入館無料。
- ゴール東武 大宮公園駅
盆栽四季の家からは徒歩7分ほど。大宮公園や氷川神社へ足をのばすのもおすすめです。
| 大宮盆栽美術館の開館時間 | 3〜10月 9:00〜16:30/11〜2月 9:00〜16:00(入館は閉館30分前まで) |
|---|---|
| 休館日 | 木曜日(祝日の場合は開館)、年末年始ほか臨時休館あり |
| 観覧料 | 一般310円、高大生・65歳以上150円、小中学生100円 |
| 駐車場 | 美術館に39台(2時間まで無料)。大盆栽まつりの期間などは公共交通機関がおすすめ |
| 漫画会館 | 9:00〜16:30、月曜休館(祝日の場合は開館)・祝日の翌平日も休館、入館無料 |
盆栽園を見学するときの注意 盆栽園は職人の仕事場であり、住まいでもあります。営業日や見学できる範囲は園ごとに違うので、入る前にひと声かけましょう。盆栽や鉢には手を触れず、撮影したいときは園の人に確かめてからにすると安心です。
村をいちばんにぎやかに見られるのは、例年5月3〜5日に開かれる「大盆栽まつり」です。2026年の第43回は9〜17時に盆栽町一帯で開かれ、盆栽や山野草の販売・相談、市民盆栽展などが行われました。2027年の日程は、春ごろのさいたま市の発表で確かめてください。
漫画会館に寄ったら、北へ50mほどの植竹稲荷神社で清水利太郎の紀功碑も見ておきたいところです。100年前、煙と瓦礫の東京を離れて松林を切り開いた職人たちの決断が、碑の文字とまわりの静かな通りに、いまも残っています。
参考資料
- 内閣府 広報誌『ぼうさい』第108号「不屈の大地 Build Back Betterの軌跡」
- さいたま市「大宮盆栽村の歴史」
- さいたま観光国際協会「大宮盆栽村散策コース」
- 三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス 大宮」
- さいたま市大宮盆栽美術館「利用案内・アクセス」
- さいたま市「第43回大盆栽まつり」
- さいたま市「盆栽四季の家」
- さいたま市大宮盆栽美術館 資料(清水利太郎と清大園)/資料(清水瀞庵翁紀功碑)


