3行でわかる埼玉と東京の県境
- 境界は明治に、江戸時代からの郡や村の境を土台に引かれ、その後も村ごとの移しかえで形が変わった
- 新座市に囲まれた練馬区西大泉町は約0.002平方キロ・30人ほどの飛び地で、できた経緯は区も把握していない
- 荒川沿いでは、川を直線にした改修で流れが動き、境界と川の位置がずれた場所がある
埼玉と東京の県境がくねくねしているのは、明治の府県が、江戸時代から続く村の境をそのまま組み合わせて境界にしたからです。そこへ明治から大正にかけて村単位の「引っ越し」や荒川の大改修が重なり、新座市の中に練馬区の土地がぽつんと残ったり、川と境界がずれたりする場所が生まれました。
この記事では、境界が決まった流れを年表で追いながら、練馬区西大泉町の飛び地、荒川沿いの浮間(北区)のような例を、練馬区や国土交通省などの資料で確かめられた範囲で紹介します。

なぜ埼玉と東京の境界はまっすぐじゃないの?
都県境は、山の尾根や大きな川で一気に引いた線ではありません。土台になっているのは、江戸時代の村と村の境、そしてそれを束ねた「郡」の境です。村の境は田畑や林の持ち主ごとに入り組んでいたので、それをつないだ県境も自然とギザギザになります。
ただし、郡の境がそのまま県境になったわけでもありません。たとえば古代から続く足立郡は、近代に入って埼玉県に属する北足立郡と、東京府に属する南足立郡に分けられました。今の足立区と埼玉県南東部は、もとは同じ郡だったのです。葛飾郡にいたっては、茨城県・千葉県・埼玉県・東京府の4府県に分かれました。一方、豊島郡は全域が東京府に入っています。
さらに、境界は一度決まって終わりではありませんでした。明治4年には板橋が浦和県から東京府へ移り、明治24年には埼玉県の榑橋村(今の練馬区大泉の一帯)が東京府に移るなど、村単位での付け替えが何度も起きています。つまり今の県境は、「江戸時代の村境」に「明治以降の付け替え」が重なった線と言えます。
境界はいつ、どうやって今の形になったの?
埼玉と東京の境界に関わる主な出来事を、自治体や公的機関の資料で確認できたものに絞って並べると、次のようになります。
- 1871年明治4年、板橋が浦和県から東京府へ移管
- 1876年明治9年12月、埼玉県と東京府の境界を荒川の中央と決める
- 1878年郡区町村編制法など三新法が制定される
- 1889年明治22年、小榑村と橋戸村が合併し埼玉県榑橋村に
- 1891年明治24年、榑橋村が東京府へ移り大泉村に
- 1893年明治26年、多摩地域が神奈川県から東京府へ移管
- 1911年明治44年、荒川放水路の測量・用地買収が始まる(前年の大洪水がきっかけ)
- 1918年大正7年、荒川上流改修に着手。蛇行した流路を直線に
- 1926年大正15年、浮間が埼玉県横曽根村から東京府岩淵町へ編入
- 1930年昭和5年、荒川放水路が竣工
- 1974年昭和49年、西大泉町の飛び地の存在が開発業者の相談で判明
明治26年の多摩地域の移管は、埼玉との境界線を動かした出来事ではありません。ただ、これで多摩が東京府に加わったことで、所沢や新座の向かい側も「東京」になったという意味では、今の都県境の顔ぶれがそろった節目と言えます。埼玉県の成り立ちそのものは埼玉県の誕生と歴史|入間県・熊谷県と県庁が浦和の理由で詳しく紹介しています。
練馬区西大泉町の飛び地はどんな場所?
練馬区の北西の端、新座市との境から少し離れたところに、四方を新座市に囲まれた練馬区の土地があります。住所は「練馬区西大泉町」。すぐ近くの「西大泉1丁目」などとは別の町名で、現在の西大泉町はこの飛び地の部分にあたります。
練馬区の統計では、西大泉町の面積は0.002平方キロメートルで、区内でいちばん狭い町です。書籍『県境マニアと行く くるっとふしぎ県境ツアー』からの抜粋記事では1,859平方メートルと紹介されており、Jタウンネットは「約30m×60m」と表現しています。練馬区の住民基本台帳では、令和8年10月1日現在で13世帯・30人が暮らしています。

Jタウンネットが練馬区に取材した記事によると、練馬区の本体とは約100mしか離れていません。暮らしの面では、上下水道は新座市、ごみの収集は練馬区が担い、子どもは基本的に練馬区の小中学校に通うそうです。ごみ収集車は新座市内を通って飛び地まで行き、途中の新座市側のごみは集めない、という話も紹介されています。
飛び地の暮らしは「都と県のいいとこ取り」?:住所・選挙区・住民税は東京都練馬区で、水道は新座市から引いています。周辺には東京都と埼玉県の2種類の消火器が置かれているとも報じられています。歩いて訪ねる場合は、住宅地の中なので私有地には入らず、道路から眺める程度にしましょう。
なぜ新座市の中に練馬区の土地が残ったの?
実は、はっきりした理由は分かっていません。練馬区はJタウンネットの取材に対し、詳しい経緯は区にも伝わっていないと答えています。存在が分かったのは1974年(昭和49年)で、開発業者が区に相談に来たことがきっかけでした。区は、行政手続きの漏れからこのような形になったと考えられる、とも説明しています。
手がかりになるのが、この一帯の歴史です。練馬区の区報連載「ねりまの地名物語」によると、西大泉の一帯は江戸時代は小榑村の一部で、明治22年に橋戸村と合併して埼玉県の榑橋村となり、明治24年に東京府へ移って大泉村になりました。昭和7年に東大泉町・西大泉町など5つの町に分かれ、昭和56年に今の住居表示になっています。
村ごと埼玉から東京へ移ったとき、境界はその村の土地の範囲で引かれたはずです。当時は村の中に、ほかの村に囲まれた畑や林(いわゆる飛び地)が点在していることも珍しくありませんでした。同じ区報連載でも、上石神井村の飛び地があったことが立野町の地名の由来とされています。西大泉町の土地も、もとは小榑村側の持ち分だった畑などが、そのまま東京府側に組み込まれた名残と考えられます。PHPオンラインの記事でも、戦前の住所から元は東京府に属していたと推測されています。
その後の動きについて、練馬区はJタウンネットの取材(2017年)で、新座市へ編入する方針はあり、変わっていないと説明しています。ただ、住民から不便の声がなく、住民の意見を無視して進めることもできないため、編入は進んでいないとのことでした。今回確認した範囲では、その後に境界変更が行われたという公表資料は見つかりませんでした。新座市周辺の歴史散歩なら野火止用水を歩く|平林寺から新座駅までの散歩道もあわせてどうぞ。
荒川沿いの境界が川とずれているのはなぜ?
埼玉県の年表によると、明治9年12月に、埼玉県と東京府の境界を「荒川の中央」と決めています。ところが当時の荒川は大きく蛇行し、たびたび洪水を起こしていました。明治43年の大洪水を機に、岩淵から下流に荒川放水路を掘る工事が始まり、昭和5年に竣工します。上流側でも大正7年から改修が始まり、築堤とあわせて河道を直線にする工事が昭和29年まで続きました。
川がまっすぐになると、それまで川を挟んで向こう岸だった土地が、こちら岸に来てしまいます。その代表が北区の浮間です。地元の資料を紹介する浮間の歴史ページによると、浮間はもともと埼玉県北足立郡横曽根村大字浮間でしたが、荒川改修で埼玉県側と川で分断され、1926年(大正15年)10月に東京府北豊島郡岩淵町へ編入されました。浮間公園の浮間ヶ池は、改修前の荒川の流れの名残です。

浮間のように村ごと移した場所がある一方、境界が昔の流れに沿ったまま残る場所もあります。北区の地域メディア「赤羽マガジン」は、地図で見ると浮間公園の裏手の荒川土手付近が埼玉県戸田市になっていると紹介しています。埼玉県内でも、桶川市と川島町、鴻巣市と吉見町の境の近くに荒川の旧流路が残っていると、国土交通省荒川上流河川事務所が説明しています。川を動かしても、境界は昔の流れを覚えているわけです。荒川沿いの街の暮らしは川口・戸田・蕨の住みやすさ比較|地価・通勤・生活費、土手を走るなら埼玉のサイクリングロード|荒川・入間川・利根川のコースとレンタサイクルが参考になります。
ほかにも境界の不思議な場所はある?
西武池袋線の秋津駅(東村山市)の周辺も、県境好きには知られた場所です。PHPオンラインの記事によると、所沢市の一部が駅に向かって鋭く切り込み、その先端が清瀬市と東村山市の境とも重なる「三市境」になっています。北口側は埼玉県、南口側は東京都で、駅近くのコンビニの店内を県境が通っているとも紹介されています。同じ記事では、池袋〜所沢間で池袋線が都県境を9か所横切るとしています。
新座市自身も、市の資料で「地域の半分が東京都に接する」と紹介しているとおり、練馬区・西東京市・東久留米市・清瀬市の4区市と接しています。電車で何気なく通り過ぎる区間でも、窓の外では何度も都と県を行き来しているのです。「埼」の字にまつわる話は「埼」の字はなぜ常用漢字じゃなかった?|2010年まで表外字だった県名で紹介しています。
県境の飛び地は、これからどうなるの?
西大泉町については、練馬区が新座市への編入方針を示しつつ、住民の意見を大切にする姿勢をとっています。編入となれば、住所だけでなく学校や税金、選挙区まで、住民の暮らしに直結するものがまとめて変わります。住民から不便の声が出ていない以上、当面はいまの形のまま、上下水道やごみ収集を区と市で分担しながら続いていくと考えられます。
江戸時代の村境、明治の付け替え、荒川の大改修。埼玉と東京の境界線は、その土地で暮らした人たちの歴史をそのまま写した線なのです。
参考資料
- ねりま区報連載「ねりまの地名物語」(練馬区)
- 世帯と人口 町丁別:令和8年(2026年)10月1日現在(練馬区)
- 練馬区勢に関する図表(令和7年版 統計書・PDF)(練馬区)
- 北豊島郡時代の板橋の地名(板橋区)
- 埼玉県近現代史主要年表(埼玉県)
- 東京府文書にみる多摩と東京―多摩地域東京府移管130年―(東京都公文書館)
- 日本の川 荒川(国土交通省)
- 沿革(国土交通省 関東地方整備局 荒川下流河川事務所)
- 旧流路、湿地(国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所)
- 戸田の渡し(国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所)
- 第2章 新座市の現況(新座市)
- 統計にいざ(第49回)令和2年版 要約資料・PDF(新座市総務部総務課)
- 第54回 東京都の区名あれこれ(3)(日本歴史地名大系ジャーナル)
- 埼玉県にある約30m×60mの「東京都」…飛地の存在理由、区役所もわからず(Jタウンネット)
- 住所は東京都なのに「埼玉県が突き刺さった」県境の謎(PHPオンライン)
- 浮間の歴史(ukima.info)
- 浮間が埼玉から東京になったのはいつでしょう?【東京都北区クイズ】(赤羽マガジン)

