3行でわかる浦和と大宮の対立
- 始まりは明治2年(1869年)。「大宮県」の県庁を浦和に置くことが決まり、わずか8か月ほどで県名も「浦和県」に変わった
- 県庁を得た浦和は行政と教育の町、寂れた大宮は鉄道で巻き返して商業の町に。性格の違う2つの町が隣り合って競い合った
- 2001年に合併してさいたま市になっても、市役所の場所をめぐる綱引きが続いた。2022年に「さいたま新都心へ移す」と決まった
浦和と大宮の仲の悪さは、明治の県庁争いで大宮が浦和に敗れた因縁と、2001年の合併後も続いた市役所の位置をめぐる主導権争いが根っこにあります。
浦和と大宮。同じさいたま市の中にありながら、「浦和の人は大宮を、大宮の人は浦和をライバル視している」という話は、埼玉に住んでいれば一度は耳にしたことがあるでしょう。冗談半分に語られるこの対立には、実は150年以上の歴史があります。
この記事では、明治の県庁争いから鉄道、合併、市役所の位置問題、そしてサッカーまで、浦和と大宮が張り合ってきた歴史をたどります。

すべては「大宮県」から始まった
江戸時代の浦和と大宮は、どちらも中山道の宿場町でした。大宮には武蔵一宮・氷川神社の門前町としての顔もあり、幕末には約3,000人が暮らしていました。
明治維新の直後、明治2年(1869年)の初め、この地域を治める県として「大宮県」が置かれます。ところが、大宮に置かれた庁舎は仮のもので、知県事(いまの知事)は東京で執務していました。正式な県庁をどこに建てるかが問題になり、候補地には浦和宿、与野町、別所村か沼影村などが挙がって、誘致合戦が起こります。
選ばれたのは、東京により近い浦和宿でした。県北の村々からは「大宮なら1日で用が済むのに、浦和では2日かかる」と強い反対があったといいますが、押し切られます。同じ年の9月、県名は県庁の所在地にちなんで「浦和県」と改められました。大宮県の存続は、わずか8か月ほどでした。
明治4年に埼玉県が生まれたときは、県庁を岩槻に置く予定でしたが、建物がないことから旧浦和県の庁舎が使われ、それが今日まで続いています(詳しくは埼玉県の誕生と歴史)。
県庁を失った大宮は、鉄道で生き返った
県庁を失った大宮の落ち込みは深刻でした。JR東日本の資料によると、幕末の慶応3年(1867年)に約3,000人いた大宮の人口は、県庁が浦和へ移った明治2年に1,752人、明治12年(1879年)には952人まで減っています。
明治16年(1883年)に上野と熊谷を結ぶ鉄道(いまの高崎線)が開通したときも、大宮には駅が置かれませんでした。人が少なく、採算が取れないと見られたためです。
ここから大宮の巻き返しが始まります。地元の白井助七らの誘致運動が実り、明治18年(1885年)3月16日に「大宮停車場」が開業。さらに大宮は東北方面へ向かう線路の分かれ道になり、明治27年(1894年)には日本鉄道の大宮工場が操業を始めました。最盛期には約5,000人が働いたこの工場が、大宮を「鉄道のまち」へと押し上げていきます。
浦和は「県都」、大宮は「鉄道のまち」へ
県庁や裁判所、師範学校などが集まった浦和は、行政と教育の町として発展しました。いっぽう大宮は、鉄道と商業で人を集める町に。性格の違う2つの町が隣り合って育ったことが、のちのライバル意識の土台になりました。
「大埼玉市」構想はなぜ何度も失敗した?
浦和・大宮・与野をひとつの大きな市にしようという構想は、戦前からあったといわれます。昭和8年(1933年)ごろ、上水道の整備をきっかけに「大埼玉市」構想が持ち上がったものの、翌年の昭和9年(1934年)2月11日に浦和が単独で市制を施行し、構想は立ち消えになったとされます。
大宮が市になったのは、それから6年後の昭和15年(1940年)11月3日です。合併構想はその後も戦時中や戦後に浮上したといわれますが、そのたびにまとまりませんでした。どちらが中心になるのかという主導権の問題が、いつも壁になりました。

2001年の合併で何が決まった?
長い曲折を経て、平成13年(2001年)5月1日、浦和市・大宮市・与野市が合併し、さいたま市が誕生しました。2003年には政令指定都市となり、旧浦和市の中心部は浦和区、旧大宮市の中心部は大宮区になっています。
このとき最後までもめたのが、市役所の場所でした。合併協定書には、新しい市の事務所は「当分の間、現在の浦和市役所の位置とする」と書かれ、将来の位置については「さいたま新都心周辺地域が望ましいとの意見を踏まえ」て検討する、と記されました。浦和と大宮のちょうど間にあるさいたま新都心を将来の候補として残すことで、双方が折り合ったわけです。
市役所はどこへ行く?20年越しの決着
ところが、合併後も市役所は浦和に置かれたままでした。大宮側からは「協定書の約束が守られていない」という不満が続き、市議会でも議論が繰り返されます。2019年には、大宮を地盤とする市議が「このままなら浦和とは離婚して、独立しかない!」と訴えたことが報じられています(週刊女性PRIME、2019年3月)。
決着がついたのは令和4年(2022年)4月です。さいたま市議会は、市役所の位置を「さいたま新都心バスターミナルほか街区」に移す条例改正を、特別多数の賛成で可決しました。合併から約21年。市役所は浦和と大宮のどちらでもない、両者の中間点へ移ることになりました。

いまも続くライバル関係
| 浦和 | 大宮 | |
|---|---|---|
| 江戸時代 | 中山道の宿場町 | 中山道の宿場町・氷川神社の門前町 |
| 明治の転機 | 県庁所在地に(1869年に決定) | 大宮駅開業(1885年)、鉄道工場(1894年) |
| 市制施行 | 1934年2月11日 | 1940年11月3日 |
| 町の顔 | 県庁・裁判所・文教地区 | 新幹線のターミナル・商業 |
| いまの区 | 浦和区(2003年〜) | 大宮区(2003年〜) |
張り合いは行政の場だけではありません。サッカーでは、浦和レッズと大宮アルディージャの対戦が「さいたまダービー」と呼ばれ、毎回大きな盛り上がりを見せてきました。大宮は2024年秋にレッドブルが経営権を取得し、2025年シーズンからチーム名が「RB大宮アルディージャ」に変わりました。
町の性格の違いも残っています。浦和は県庁や文教地区のある落ち着いた住宅地として、大宮は新幹線が集まるターミナルと商業の町として、それぞれ人を引きつけています。どちらが上かを競い合うことが、結果として両方の町を育ててきたとも言えるでしょう。
150年前の県庁争いに始まったライバル関係は、いまや地元の人たちが笑いながら語る「お約束」になりました。浦和と大宮、あなたはどちら派でしょうか。
- 1869年大宮県が置かれ、8か月で浦和県に
- 1871年埼玉県が誕生、県庁は浦和
- 1879年大宮の人口が952人まで減少
- 1885年大宮駅が開業
- 1894年日本鉄道の大宮工場が操業
- 1934年浦和が単独で市制施行
- 1940年大宮が市制施行
- 2001年浦和・大宮・与野が合併、さいたま市に
- 2022年市役所をさいたま新都心へ移す条例が可決
参考資料
- ぶぎんレポート「大宮県から浦和県へ」(ぶぎん地域経済研究所)
- 鉄道のまち大宮の歴史(JR東日本)
- 浦和区の沿革(さいたま市)/大宮区の沿革(さいたま市)
- 合併協定書(さいたま市)
- 新庁舎整備の経緯(さいたま市)
- 浦和vs大宮 市議の主張(週刊女性PRIME、2019年)
- レッドブルによる大宮アルディージャの経営権取得(サッカーキング)


