3行でわかる吉見百穴の正体
- 吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀後半)に造られた横穴墓群で、現在219基が確認されています
- 明治20年(1887年)に発掘した坪井正五郎は「コロボックルの住居」と唱え、墓だとする反論と論争になりました
- 古墳の石室とほとんど同じ構造で、追葬を前提にしたつくりであることなどから墓とみるのが定説となり、1923年に国の史跡に指定されました
吉見百穴の穴は、人が暮らした家ではなく、古墳時代の末期に造られたお墓です。葬られた人の名前までは分かっていませんが、この地域の有力者の墓とみる見方があります。明治時代には「アイヌの伝承に出てくる小人、コロボックルの住居だ」という説が大まじめに唱えられ、学者どうしの論争にまで発展しました。
この記事では、なぜ岩山に200を超える穴が開いているのか、若き人類学者・坪井正五郎がなぜコロボックル説を唱え、その説がどうして退けられたのかを順にたどります。戦時中に掘られた地下工場や、国の天然記念物ヒカリゴケの話、見学の基本情報も最後にまとめました。

吉見百穴は結局、誰の墓なの?
吉見町の公式サイトは、吉見百穴を「古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀後半)に造られた横穴墓群」と説明しています。横穴墓(よこあなぼ)とは、丘の斜面に横向きに穴を掘り、その奥を遺体を納める部屋にしたお墓のことです。土を盛り上げて造る古墳とは見た目がまったく違いますが、同じ時代のお墓の一つの形です。
町の説明では、遺体を納めた奥の部屋(玄室)のつくりは古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じで、一つの穴に何人もの遺体をあとから葬る「追葬」を前提にしたつくりになっています。つまり家族や一族が代々使ったお墓と考えられます。葬られた人の名前を記した資料は残っていませんが、地元紙の東上新聞は、研究者の見解として豪族の墓だと紹介しています。
なお文化庁の国指定文化財の記録では、史跡としての読みは「よしみひゃっけつ」です。一方、同じ場所の天然記念物は「吉見百穴ヒカリゴケ発生地(よしみひゃくあな〜)」と登録されていて、国の記録の中でも二通りの読みが並んでいます。
なぜ岩山にこれほど多くの穴があるの?
「百穴」は穴の数がちょうど100という意味ではなく、たくさんの穴という意味合いの呼び名です。1923年に国の史跡に指定されたときの説明文には、口を開けている穴が「二百數十個ニ及ヒ」、関東の横穴群の中で最も著名なものだと書かれています。現在、吉見町が確認している数は219基です。
これほどの数が一か所に集まった理由について、吉見町は、この丘の岩が比較的掘りやすい凝灰質砂岩だったことを挙げています。墓穴を掘るのに向いた岩山だったからこそ、斜面が蜂の巣のようになるまで穴が増えていったと考えられます。埼玉県も、吉見百穴を200基以上の横穴墓が確認された国内最大級の規模の遺跡として紹介しています。
吉見町内には、八丁湖の周辺に黒岩横穴墓群という別の横穴墓群も点在しています。この一帯の丘陵は、古墳時代の人々にとって「お墓を掘る場所」だったのかもしれません。
坪井正五郎はなぜ「コロボックルの住居」と考えたの?
吉見百穴を本格的に発掘したのが、のちに日本の人類学の草分けとなる坪井正五郎(1863〜1913年)です。吉見町によると発掘は明治20年(1887年)に行われ、東上新聞は、帝国大学(のちの東京帝国大学)の大学院生だった坪井が地元の協力を得て全面的に発掘したと伝えています。
当時の日本では、「石器時代の日本列島に住んでいた先住民は誰か」が大きな学問上の問いでした。藤井寺市教育委員会の解説によれば、アイヌの祖先とする説と、アイヌの伝説に登場する小人「コロボックル」とする説が対立していました。坪井はコロボックル説の代表的な論者で、のちに雑誌『風俗画報』に「コロボックル風俗考」(1895〜1896年)を連載したほどです。
坪井は吉見百穴の穴を、こうした先住民が暮らした住居の跡だと考えました。斜面にずらりと並ぶ穴が、坪井の目には先住民の住まいの集まりに映ったのかもしれません。

明治の論争では何が争われたの?
坪井の住居説には、発表の直後から反論が出ました。翌1888年の『東京人類學會雜誌』第3巻第25号には、「北吉見村横穴ヲ以テ穴居遺跡ト爲スノ説ニ敵ス」、つまり「北吉見村の横穴を人の住んだ遺跡とする説に反対する」という題の論文が「神風山人」という筆名で載っています。筆名の主が誰なのかは、今回確認した資料でははっきりしません。東上新聞も、坪井が住居跡と考えた当時から墓だとする反論があったと伝えています。
坪井の論争相手としてよく名前が挙がるのが、植物学者の白井光太郎(1863〜1932年)です。白井は坪井と子どもの頃からの古物好き仲間で、ともに人類学会の創立に加わった同志でした。人名事典では、白井について坪井との「コロボックル論争」が有名だと紹介されています。仲間内でこそ遠慮のない議論ができた、という面もあったのでしょう。
論争の本当の争点:吉見百穴をめぐる議論は、穴の使い道だけの話ではありませんでした。「日本列島の先住民は誰か」という当時の大問題に、住居説はコロボックル説の証拠として組み込まれていました。墓か住居かは、日本人の起源をめぐる論争の一部だったのです。
コロボックル住居説はなぜ否定されたの?
決め手になったのは、穴そのもののつくりです。吉見町の説明のとおり、奥の部屋は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じつくりで、一つの穴に何人もの遺体を葬る追葬を前提にしています。東上新聞は、入口(羨門)から通路(羨道)、遺体を納める部屋(玄室)へと続く構造を紹介し、玄室の両側に棺を置く台(棺座)を備えたタイプもあると伝えています。暮らしの場というより、遺体を安置するための設計だということが分かります。
また、コロボックル説そのものが学界で支持を失っていきました。藤井寺市教育委員会の解説によると、コロボックル説とアイヌ説の対立は、坪井が大正2年(1913年)に急死したことで事実上決着し、その後の人骨研究によって「石器時代人は現代日本人の祖先」という見方へ進んでいきます。コロボックル説は今日では過去の学説として扱われています。
こうして吉見百穴は、古墳時代の人々のお墓として評価が定まり、1923年(大正12年)3月7日に国の史跡に指定されました。住居説が退けられた理由をまとめると、古墳の石室と同じ構造であること、追葬を前提にしたつくりであること、棺を置く台を備えた穴もあること、そしてコロボックル説そのものが支持を失ったこと、の4点に集約できます。

戦時中の地下工場とヒカリゴケはどう関係するの?
百穴の斜面の下のほうには、ひときわ大きな穴が口を開けています。これは古墳時代ではなく、太平洋戦争末期の昭和19〜20年(1944〜1945年)に掘られた地下軍需工場の跡です。吉見町によると、空襲を避けるため中島飛行機の工場を地下に移す計画で造られました。東上新聞は、航空機部品を造る予定だったものの本格稼働の前に終戦を迎えたこと、工事には多くの朝鮮人労働者が動員されたとされることを伝えています。同紙によると、坪井が確認した横穴は237基でしたが、一部がこの工事で壊され、現在の219基になりました。
地下工場跡は現在、点検のため立ち入りが制限されています。一方、横穴の一部にはヒカリゴケが自生しています。ヒカリゴケはそれまで国内では中部地方より北の山地でしか知られていなかったため、関東平野で見つかったことが植物の分布上の重要な発見とされ、1928年(昭和3年)11月30日に「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」として国の天然記念物に指定されました。古代の墓、戦争の遺跡、珍しい植物の自生地。一つの岩山にこれだけの層が重なっている場所はなかなかありません。
- 6世紀末〜7世紀後半古墳時代の末期に横穴墓群が造られる
- 1887年坪井正五郎が発掘し、住居説を唱える
- 1888年学会誌に住居説への反論が載る
- 1913年坪井が急死し、コロボックル説は衰退
- 1923年国の史跡に指定(3月7日)
- 1928年ヒカリゴケ発生地が国の天然記念物に(11月30日)
- 1944〜1945年中島飛行機の地下軍需工場が掘られる
見学するにはいくら・何時まで?
吉見町の案内では、開園時間は午前8時45分〜午後4時50分(入園は午後4時30分まで)、年中無休です。入園料は中学生以上300円、小学生200円、小学生未満は無料で、20名以上の団体は割引があります。所要時間や駐車場、ヒカリゴケの見つけ方は「吉見百穴の見どころ|所要時間とヒカリゴケ・駐車場」で詳しく紹介しています。近くで食事や買い物をするなら「道の駅いちごの里よしみ」も立ち寄り先になります。
同じ古墳時代の埼玉をたどるなら、行田の「さきたま古墳群の謎|鉄剣115文字とワカタケル大王」とあわせて読むと、大きな前方後円墳を築いた人々と、岩山に墓を掘った人々の違いが見えてきます。
参考資料
- 吉見百穴/ヒカリゴケ(吉見町)
- 町の概要(吉見町)
- 吉見百穴(文化遺産オンライン/文化庁)
- 吉見百穴ヒカリゴケ発生地(文化遺産オンライン/文化庁)
- 土地に刻まれた人々の営み 史跡(埼玉県・PDF)
- 北吉見村横穴ヲ以テ穴居遺跡ト爲スノ説ニ敵ス(東京人類學會雜誌 第3巻第25号、1888年/J-STAGE)
- 石器時代人論争(藤井寺市)
- 人類学と坪井正五郎 展示解説(東京大学附属図書館・PDF)
- コロボックル風俗考 坪井正五郎(青空文庫)
- 白井光太郎、坪井正五郎ほか人物解説(福井県・PDF)
- 白井光太郎|蔵書印の世界(国立国会図書館)
- 坪井正五郎(コトバンク)
- 白井光太郎(コトバンク)
- 古墳時代の横穴墓群 吉見百穴(吉見町) 戦時に大規模軍需工場建設(東上新聞)

