3行でわかる草加せんべいの由来
- 茶屋のおせんさんが団子をつぶして焼いたという有名な伝説は、草加市自身が「昭和時代に作られた物語」と説明している
- 実際の始まりは、米どころの農家が余った米を団子状にして乾かした保存食。日光街道の草加宿で売られ、最初は塩味、のちに醤油味になった
- 大正時代の天皇への献上や戦後の物産展で全国に広まり、2007年には「草加せんべい」が地域団体商標に登録された
「おせんさん」伝説は、残念ながら史実ではありません。草加市の公式サイトは、この話を「実は昭和時代に作られた物語です」と紹介しています。本当の始まりは、農家が余った米を乾かして作った素朴な保存食でした。
埼玉を代表する名物のひとつ、草加せんべい。お土産でおなじみのこのせんべいには、茶屋の娘「おせんさん」が生みの親だという有名な話があります。この記事では、伝説の中身と、それが「作られた物語」とされる理由、そして実際の草加せんべいの歩みを、草加市や草加せんべい振興協議会の資料をもとにたどります。

「おせんさん」伝説とはどんな話?
伝説の舞台は、江戸時代の日光街道・草加宿です。草加市の紹介によると、話のあらすじはこうです。宿場の茶屋で団子を売っていたおせんさんは、売れ残った団子が日持ちしないことに困っていました。そこへ通りがかったお侍さんが「団子を平らにつぶして天日で乾かし、焼き餅にして売ってはどうか」と勧めます。言われたとおりに作ってみると評判になり、これが草加せんべいの始まりになった、というものです。草加せんべい振興協議会は、助言したのを武者修行中の侍として紹介しています。
話にはいくつかのバリエーションがあります。おせんさんを若い茶屋の娘とする話もあれば、「おせん婆さん」とする話もあります。老舗の小宮せんべい本舗のように、売れ残った団子を川に捨てていたおせん婆さんに旅の侍が声をかけたという筋立てや、「おせん」の名前から「せんべい」という呼び名が生まれたとする話を紹介している店もあります。
おせんさん伝説は本当か?
結論から言うと、史実としての裏付けはありません。草加市の公式サイトは、おせんさんの話を紹介したうえで、「実は昭和時代に作られた物語です」とはっきり書いています。草加せんべい振興協議会も、この話を「俗説」として紹介しており、埼玉県の草加市の紹介ページも「真偽のほどはわかりません」としています。
誰がいつこの話を作ったのか、最初にどの本や印刷物に載ったのかは、公的な資料では確認できませんでした。分かっているのは、昭和の時代に生まれた物語が、草加せんべいの由来として広く語られるようになったということです。
作り話でも、町の物語として愛されている:史実ではないと分かっていても、おせんさんは草加の町で大切にされています。旧日光街道沿いには「おせん公園」があり、平成4年(1992年)11月には「草加せんべい発祥の地」の碑も建てられました。由来の真偽よりも、せんべいの町・草加を語る物語として親しまれていると言えそうです(碑の様子は草加せんべい発祥の地碑|煎餅の街・草加を歩くで紹介しています)。
| おせんさん伝説 | 資料から分かること | |
|---|---|---|
| 始まり | 茶屋のおせんさんが、侍の助言で団子を平らにして焼いた | 農家が余った米を団子状にして乾かした保存食 |
| いつの話か | 江戸時代の草加宿 | 話そのものは昭和時代に作られた物語(草加市) |
| 味 | 伝説では語られない | 最初は塩味。幕末に醤油が広まり、醤油を塗るように |
| 広まったきっかけ | 茶屋での評判 | 大正時代の天皇への献上、戦後の物産展 |
本当の始まりは「米の保存食」だった
では、草加せんべいは本当はどのように生まれたのでしょうか。草加市の説明によると、始まりは米どころだった草加周辺の農家が、余った米を団子状にして乾かしておいた保存食だと考えられています。
草加宿ができると、保存食だったせんべいが店で売られるようになったと考えられています。草加宿は、千住と越ヶ谷の間に新しく通された道の中間に設けられた宿場で、寛永7年(1630年)に幕府の公認を受けて正式な宿場になりました。日光街道を行き交う旅人にとって、軽くて日持ちするせんべいは手頃な間食だったといいます。
最初のせんべいは、生地に塩を練り込んだ「塩せんべい」でした。その後、利根川沿いなどで醤油づくりが盛んになり、幕末に醤油が広く出回るようになると、焼いたせんべいに醤油を塗るようになります。振興協議会は、良い米と水、そして醤油が身近に手に入ったことを、草加でせんべいづくりが根づいた理由に挙げています。

どうやって全国に知られるようになった?
草加のせんべいが広く知られるきっかけになったのは、大正時代以降です。草加市によると、川越で行われた特別大演習の際、せんべいが埼玉の名産品として天皇に献上され、知名度が上がりました。
ところが戦時中、米の配給が統制されると、原料の米が手に入らなくなり、多くのせんべい屋が廃業に追い込まれます。それでも草加市によると、一部の店が闇米を使って作り続けたことで技が途切れず、戦後の復活につながりました。昭和30年代に米の統制が解除されると、高度経済成長の波に乗って、草加せんべいの名は一気に広まりました。
当時は「塩せんべい」「焼きせんべい」と呼ばれることも多かったせんべいですが、市内の店主たちが百貨店の物産展などに出て名前を広めたことで、戦後は「草加せんべい」が醤油せんべいの代名詞のように使われるようになりました。
「本物の草加せんべい」はどう守られている?
名前が広まると、困ったことも起こりました。草加市によると、類似品や模倣品が出回り、草加せんべいへの信頼が下がってしまったのです。外国産の米を使い、草加から遠く離れた土地で作られたせんべいにまで「草加せんべい」の名前が使われていたと報じられています。
そこで地元は、ブランドを守る取り組みを進めます。平成13年(2001年)8月には、せんべいづくりの技を持つ職人を認定する伝統産業技士の制度が始まりました。平成18年(2006年)2月には、伝統的な製法と原料を守った食品を認める「本場の本物」に、草加せんべいが認定されています。
さらに平成19年(2007年)6月、「草加せんべい」は特許庁の地域団体商標に登録されました(登録番号は第5053366号。コトバンク収録『事典 日本の地域ブランド・名産品』による)。地域団体商標は、地域の名前と商品名を組み合わせたブランドを、地元の団体が守るための制度です。平成27年(2015年)3月には、草加市が「草加せんべいの普及を促進する条例」を施行しました。

では、「本場の本物」に認められた草加せんべいとは、どんなせんべいなのでしょうか。草加市によると、認定当時の基準は4つありました。作る場所が草加・八潮・川口・越谷・鳩ケ谷(当時)の範囲であること。関東近県でとれた良質なうるち米を使うこと。10年以上の経験を持つ職人が製造を管理すること。そして、押し瓦を使って焼くことです。
現在、草加市内でせんべいを作ったり売ったりしている店は約40軒あります。金明町の「草加せんべいの庭」のように、手焼きの体験ができる施設もあり、焼きたての香ばしさを味わえるのは本場ならではです。体験の情報は埼玉の手づくり体験10選でも紹介しています。お土産選びの参考には埼玉のお土産・銘菓12選もどうぞ。
- 1630年草加宿が幕府公認の宿場になる
- 幕末醤油が広まり、醤油を塗ったせんべいに
- 大正時代川越の特別大演習で天皇に献上
- 戦時中米の統制で多くの店が廃業
- 昭和30年代米の統制が解除され、全国に広まる
- 1992年「草加せんべい発祥の地」碑が建つ
- 2006年「本場の本物」に認定
- 2007年地域団体商標に登録
- 2015年草加せんべいの普及を促進する条例を施行
参考資料
- 草加せんべいの歴史と現在(草加市)
- 草加宿と日光道中(草加市)
- 草加市の概要(埼玉県)
- 草加せんべいを知る(草加せんべい振興協議会)
- 草加せんべいのブランド(草加せんべい振興協議会)
- 沿革(草加せんべい振興協議会)
- 草加せんべい(コトバンク『事典 日本の地域ブランド・名産品』)
- 草加せんべいの起源(小宮せんべい本舗)
- 草加せんべいのブランド戦略(Wedge、2017年)
- 草加せんべいの普及を促進する条例(地方自治研究機構)


