3行でわかるさきたま古墳群と鉄剣
- 行田市にある9基の大型古墳の集まりで、県名「埼玉」の発祥の地。2020年に埼玉県で唯一の国の特別史跡に
- 稲荷山古墳から出た鉄剣に、1978年、金で刻まれた115文字が見つかった。「ワカタケル大王」に仕えたヲワケの記録で、471年・雄略天皇の時代とする説が有力。ヲワケが誰かは今も謎
- 実物は県立さきたま史跡の博物館(1階国宝展示室)で、2026年2月28日から2年半ぶりに公開中。一般200円、中学生以下無料
錆びて真っ赤になった一振りの鉄剣。発掘から10年後、保存処理のためにX線で透かして撮影すると、さびの下に隠れていた文字が写真に浮かび上がりました。金で象嵌された、115文字の漢字です。日本の古代史の教科書を書き換えたといわれる大発見は、埼玉県行田市の古墳から生まれました。
この記事では、さきたま古墳群とはどんな場所なのか、鉄剣の115文字に何が書かれていたのか、そしてなぜそれほど重要なのかを、いま現地で見られるものと合わせて紹介します。

さきたま古墳群とはどんな場所?
さきたま古墳群は、行田市埼玉(さきたま)にある大型古墳の集まりです。前方後円墳8基と、円墳1基の計9基の大型古墳が、いまの古墳公園の中に集まっています。5世紀後半に造られた稲荷山古墳から始まり、6世紀にかけて次々と築かれました。
面白いのは、前方後円墳がすべて同じ方向を向き、周りを二重の堀で囲まれていることです。一つの有力な一族が、何代にもわたって同じ設計思想で墓を造り続けたことがうかがえます。2020年には国の特別史跡に指定されました。埼玉県で特別史跡になっているのは、ここだけです。
この一帯は古く「前玉(さきたま)」と呼ばれ、それが「埼玉」の地名、そして県名の由来になったとされています。古墳公園のそばには「埼玉県名発祥之碑」が立ち、近くには地名のもとになった前玉(さきたま)神社もあります。
鉄剣はどうやって見つかったの?
稲荷山古墳の発掘調査が行われたのは1968年(昭和43年)。墳丘の後円部から、2つの埋葬施設が見つかりました。粘土で覆った「粘土槨」はすでに盗掘されていましたが、石を敷き詰めた「礫槨(れきかく)」は手つかずで、鏡や馬具、装身具などとともに、全長73.5センチの鉄剣が出てきました。
このときは、さびに覆われたありふれた鉄剣の一つと考えられていました。転機は10年後の1978年です。奈良の元興寺文化財研究所で保存処理を進めるなか、X線で透かして見ると、剣の両面に金で象嵌(ぞうがん)された文字が並んでいることがわかりました。表に57文字、裏に58文字、合わせて115文字。全国ニュースとなり、鉄剣は「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」と呼ばれるようになります。1983年には、ほかの出土品とともに国宝に指定されました。
115文字には何が書かれている?
銘文は漢字だけで書かれています。原文は次のとおりです。
表(57文字)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
裏(58文字)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
内容をいまの言葉に置き換えると、おおよそ次のような流れです。

冒頭は「辛亥年七月中記」。辛亥(しんがい)の年の7月に記した、という日付です。続いて、ヲワケ(乎獲居)という人物の先祖が、初代のオホヒコ(意富比垝)から順に8代にわたって書き連ねられます。
後半では、ヲワケの一族が代々「杖刀人首(じょうとうじんのおびと)」、つまり大王を守る武官の長として仕えてきたこと、そしてワカタケル(獲加多支鹵)大王の宮が「斯鬼宮(しきのみや)」にあったとき、ヲワケが天下を治めるのを助けたことが記されます。最後に、そのことを記念してこのよく鍛えた刀を作らせ、仕えてきた由来を書き残す、と結ばれています。
読み解きのポイント
「辛亥年」は471年とする説が有力で、531年とする説もあります。ワカタケル大王は、『日本書紀』などに登場する雄略天皇(倭王武)にあてる説が有力です。471年・雄略天皇とする見方が学界の大勢ですが、確定はしていません。
なぜ「日本史を書き換えた」と言われるの?
理由は大きく3つあります。
一つめは、日本で書かれた文字資料として最古級のものだということ。5世紀の日本列島で、すでに漢字を使って自分たちの言葉や名前を書き記していたことを、実物で示しました。
二つめは、熊本県の江田船山古墳から出ていた大刀の謎が解けたことです。この大刀にも大王の名が刻まれていましたが、文字が欠けていて、それまでは別の大王(反正天皇)の名と読む説が有力でした。稲荷山の鉄剣と照らし合わせたことで、同じ「ワカタケル大王」と読めるようになったのです。関東と九州、遠く離れた2つの古墳に同じ大王の名がある。5世紀後半には、大王の力が東西の広い範囲に及んでいた可能性を示す証拠になりました。
三つめは、地方の豪族と中央の大王の関係が、当事者の言葉で書かれていたことです。武蔵の地に眠る人物が、大王のそばで仕えた誇りを刀に刻んだ。古代国家の成り立ちを考えるうえで、欠かせない資料になっています。
まだ解けていない謎は?
115文字は多くのことを語りましたが、答えの出ていない問いも残っています。
まず、ヲワケは誰なのか。剣が稲荷山古墳の埋葬施設(礫槨)から出たことから、葬られた本人とする見方があります。ただし礫槨は後円部の中心からずれた位置にあり、古墳の本来の主の埋葬施設は別にあるとも考えられています。いっぽうで、大王の親衛隊長が関東の豪族だったとは考えにくいとして、大王のもとで働いた中央の人物で、剣だけが地元の豪族に渡ったとする見方もあります。ヲワケの先祖とされるオホヒコを、古代の記録に登場する大彦命(おおびこのみこと)と重ねる説もありますが、見解は分かれています。
年代の問題もあります。471年なのか531年なのかで、古墳や大王の時代の見方が変わってきます。県立さきたま史跡の博物館では、2026年10月3日から11月23日まで、企画展「ヲワケの生きた時代―5世紀の北武蔵―」が開かれ、こうした謎に5世紀の遺跡や出土品から迫っています。
丸墓山古墳と石田三成の意外な関係
古墳群のもう一つの主役が、丸墓山(まるはかやま)古墳です。直径105メートル、日本最大級の円墳で、6世紀初めごろに造られたと考えられています。
時代は1000年以上下って1590年。豊臣秀吉の小田原攻めのさなか、石田三成はこの丸墓山に陣を張り、近くの忍城(おしじょう)を水攻めにしました。そのとき築かれた堤の一部が「石田堤」として今も残っています。映画にもなった小説『のぼうの城』の舞台です。
さきたま古墳公園はどう回る?
古墳群は「さきたま古墳公園」として整備され、散歩しながら見て回れます。おすすめは、まず博物館で鉄剣と出土品を見て予習し、そのあと稲荷山古墳、丸墓山古墳の順に登る回り方です。9基のうち頂上まで登れるのはこの2基だけです。将軍山古墳の展示館では、古墳の内部の石室も見学できます。天気のよい日には、古墳の上から遠く富士山が見えることもあります。

出かける前に確認
- 博物館は9:00〜16:30(入館は16:00まで)。月曜休館(祝日・振替休日・県民の日の11月14日は開館)、年末年始休館
- 観覧料は一般200円、高校生・学生100円、中学生以下は無料
- 11月7日(土)は博物館が終日臨時休館。10月12日・11月2日・11月23日の月曜は開館
- 公園の駐車場は普通車295台。電車ならJR吹上駅から朝日バスで「産業道路」下車、徒歩約15分。JR行田駅・秩父鉄道行田市駅からは市内循環バスで「さきたま古墳公園前」下車、徒歩約2分。所在地は行田市埼玉4834(博物館)
近くでは、10月18日に行田古墳フェスティバル、11月8日に忍城時代まつりが開かれます。古墳と忍城をあわせて回ると、古代から戦国まで行田の歴史をひと続きで楽しめます。
- 5世紀後半稲荷山古墳が造られる
辛亥年(471年説)の銘
- 6世紀初め丸墓山古墳が造られる
- 1590年石田三成が丸墓山に陣、忍城を水攻め
- 1968年稲荷山古墳を発掘、鉄剣が出土
- 1978年X線で金象嵌の115文字を発見
- 1983年国宝に指定
- 2020年国の特別史跡に
- 2026年鉄剣の実物を2年半ぶりに公開
2月28日から、新しい展示ケースで
参考資料
- 国宝「金錯銘鉄剣」の実物を2年半ぶりに公開します(埼玉県)
- 企画展「ヲワケの生きた時代―5世紀の北武蔵―」(埼玉県)
- さきたま史跡の博物館 再開館と観覧料(埼玉県)
- さきたま史跡の博物館 施設案内(埼玉県)
- さきたま古墳公園(埼玉県)
- 埼玉の古墳(埼玉県 学習資料)
- ぶぎんレポート(金錯銘鉄剣と県名発祥の地)
- 金錯銘鉄剣(Google Arts & Culture)
- 稲荷山古墳(コトバンク)


