秩父市の山あいに、世界中のウイスキー好きが「一度は訪ねたい」と口をそろえる蒸溜所があります。ベンチャーウイスキーの秩父蒸溜所。ここで生まれる「イチローズモルト」は、英国の品評会で世界最高賞を重ね、限定ボトルは発売と同時に抽選になるほどの人気です。
ただ、その出発点は華やかなものではありませんでした。倒産した実家の酒蔵に残された、廃棄寸前のウイスキー原酒。この記事では、そこから世界的ブランドになるまでの道のりと、秩父でのつくりの特徴、そして地元で味わう・手に入れる方法までをまとめます。
廃棄寸前の原酒から始まった
創業者の肥土伊知郎(あくと・いちろう)さんは1965年、埼玉県生まれ。東京農業大学で醸造を学び、サントリーに入社したのち、1997年に家業である羽生市の東亜酒造へ戻りました。
ところが同社は経営不振に陥り、2000年に民事再生法を申請。事業の譲渡先からは、羽生蒸溜所で長年寝かせてきたウイスキー原酒の廃棄を求められます。その数、約400樽。肥土さんは先人が残した原酒をもう一度世に出そうと引き取りを決め、福島県の酒造会社に樽を預かってもらいながら、2004年にベンチャーウイスキーを立ち上げました。
翌2005年、羽生の原酒を詰めた最初の「イチローズモルト」を発売。その後、国内外の蒸溜所で修業を積んだうえで、2008年2月、故郷の秩父で自前の蒸溜を始めました。
当時、ウイスキーの消費は長い低迷期の底にありました。小さな新設蒸溜所が珍しかった時代に、あえて一から造る道を選んだことになります。
秩父蒸溜所のつくり 5つの特徴
1. 小さな蒸溜器で、手の届く範囲の酒造り
秩父蒸溜所(第1蒸溜所)の蒸溜器は初溜・再溜とも約2,000リットル。肥土さんは、スコットランドで蒸溜所として認められる最小クラスとほぼ同じ大きさだと語っています。量より、目の届く範囲で丁寧に造ることを優先した設計です。
2. ミズナラの木桶で発酵
麦汁を発酵させる槽に、日本固有のミズナラ材を使っているのは秩父だけとされます。木桶に住みついた乳酸菌が働き、それがイチローズモルトの個性の一部になっています。
3. 地元・秩父産の大麦と、昔ながらの製麦
2010年からは地元で原料の大麦栽培を始め、作付面積を少しずつ広げてきました。床に大麦を広げて発芽させる伝統的な「フロアモルティング」も一部で自社で行っています。国内でこれを手がける蒸溜所は数えるほどしかありません。
4. 自前の樽工房
敷地内にクーパレッジ(製樽工場)を持ち、年間約300樽を製造。そのほとんどがミズナラ樽です。外注が難しいため自社でつくり始めたもので、地元の高校を卒業したばかりの若い職人も働いています。
5. 秩父盆地の寒暖差
夏は30℃を超え、冬の朝晩は氷点下。この大きな寒暖差が樽の中の熟成を進め、同社は「5年、10年の熟成でも、より長く寝かせたような深みが出る」と説明しています。
第2蒸溜所、そして北海道へ
需要の高まりを受けて、2019年10月には近くに秩父第2蒸溜所が本格稼働しました。発酵槽は1基1万5,000リットル(第1蒸溜所は約3,100リットル)、1回の仕込みに使う麦芽は第1蒸溜所の5倍の2,000キロに増えました。
さらに2026年1月16日には、子会社が北海道苫小牧市に建てた蒸溜所で生産を開始。こちらはトウモロコシを原料とするグレーンウイスキーの蒸溜所で、年間240万リットルを造り、2029年の発売を目指しています。ブレンデッドに欠かせないグレーン原酒を、輸入に頼らず自社で賄う狙いです。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 2000年 | 実家の東亜酒造(羽生市)が民事再生法を申請 |
| 2004年 | ベンチャーウイスキー設立、羽生の原酒を引き取る |
| 2005年 | 最初のイチローズモルトを発売 |
| 2008年2月 | 秩父蒸溜所で蒸溜開始 |
| 2010年 | 地元・秩父で大麦の栽培を開始 |
| 2011年 | 秩父蒸溜所の初リリース「秩父ザ・ファースト」7,400本が発売当日に完売 |
| 2014年 | 第1回「秩父ウイスキー祭」 |
| 2019年10月 | 秩父第2蒸溜所が本格稼働 |
| 2026年1月 | 北海道・苫小牧蒸溜所で生産開始(発売は2029年予定) |
世界での評価
英国のウイスキー専門誌が主催する「ワールド・ウイスキー・アワード」では、ブレンデッドの限定リリース部門などで世界最高賞を通算6回受賞。2019年には肥土さん自身が国際品評会「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ」でブレンダー・オブ・ザ・イヤーに選ばれています。
羽生の原酒をトランプになぞらえた54本の「カードシリーズ」は、全巻揃いのセットが海外のオークションで約1億円で落札されたことでも知られます。父の代に「売れない」とされた原酒が、世界の収集家の垂涎の的になったわけです。
代表的な銘柄と価格の目安
限定品は入手が難しい一方、定番品は酒販店や百貨店で手に取れます。
| 銘柄 | 特徴 | 参考価格(税込) |
|---|---|---|
| モルト&グレーン ホワイトラベル | 入門向けの定番ブレンデッド | 4,235円 |
| モルト&グレーン クラシカルエディション | 秩父の原酒を軸に世界5大ウイスキーをブレンド | 7,700円 |
| リーフシリーズ(ミズナラウッドリザーブ/ワインウッドリザーブ/ダブルディスティラリーズ) | 樽や原酒の違いを楽しむシリーズ | 各8,800円 |
| モルト&グレーン リミテッドエディション | 世界最高賞を受けたブレンデッド | 11,000円 |
※2026年時点の価格の目安。店頭の実勢価格はこれより高いことがあります。
蒸溜所は見学できる?
秩父蒸溜所は一般見学を受け付けていません。予約なしで訪ねても中には入れないので注意してください。
例外が、秩父市のふるさと納税の返礼品として用意された特別見学ツアーです。2026年は10月30日(金)〜31日(土)の1泊2日で、第1・第2蒸溜所と樽工房の見学、試飲、市内のパブでのウイスキーと軽食、宿泊がセットになっていました(寄付額12万円、定員15名)。この回は受付を終えています。今後の募集は秩父市のふるさと納税ページで確認してください。
秩父で味わうなら
蒸溜所に入れなくても、秩父の街はイチローズモルトのお膝元です。そば屋や居酒屋でもイチローズモルトのハイボールを置く店が多く、地元では「秩父ハイボール」として親しまれています。
- Highlander Inn Chichibu:スコットランドに本店を構えるウイスキーパブの秩父店。古民家を改装した店内で、秩父のウイスキーをじっくり飲み比べられます。
- 西武秩父駅前温泉 祭の湯:地酒を選んで飲める角打ちを併設。10月10日(土)には地元の酒蔵が集まる「秩父酒蔵まつり2026」も開かれます。
- 秩父ウイスキー祭:2014年に約800人で始まった試飲イベントは、いまや約4,000人が集まる規模に。秩父神社を会場に国内外の蒸溜所が出展します。次回は2027年2月21日(日)と公式サイトで告知されています(チケットは例年早期に完売)。
池袋から西武線の特急で最短約80分。試飲が目的なら車は置いて、電車で出かけましょう。
限定ボトルの手に入れ方
シングルカスクなどの限定品は、百貨店や酒販店の抽選販売が中心です。たとえば高島屋では、秩父のフロアモルティング麦芽で仕込んだ10年熟成のシングルモルト(108本限定、25,300円)をアプリで抽選し、大宮店を含む13店舗で10月20日〜31日に販売します(応募は10月6日で締め切り済み)。気になる人は、百貨店や地元酒販店の告知をこまめにチェックしておくのが近道です。
よくある質問
秩父蒸溜所の場所は?
秩父市みどりが丘にあり、西武秩父駅から車で20分ほど。ただし一般公開はしていません。
羽生蒸溜所とはどう関係しているの?
イチローズモルトの原点は羽生蒸溜所の原酒です。羽生蒸溜所は現在、東亜酒造が2021年に蒸溜を再開しており、見学施設もあります。詳しくは「羽生蒸溜所ビジターセンター」の記事をご覧ください。
初めて飲むならどれがいい?
価格の手頃さで選ぶならホワイトラベル、秩父のミズナラ樽の個性を知りたいならミズナラウッドリザーブが入り口になります。まずは秩父の飲食店でハイボールから試すのも手です。
※20歳未満の飲酒は法律で禁止されています。

