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渋沢栄一の生涯と深谷|生家・記念館の巡り方

藍色の背景にそろばんとレンガ。深谷が生んだ近代日本経済の父、渋沢栄一の生涯と深谷、生家・記念館の巡り方(入館無料) 歴史・文化・雑学

3行でわかる渋沢栄一

  • 深谷市血洗島の農家に生まれ、約500の企業と約600の社会事業に関わった「近代日本経済の父」
  • 藍玉の商い、攘夷の志士、幕臣、官僚を経て実業家に。考え方は『論語と算盤』にまとめられた
  • 深谷には生誕地の「中の家」や記念館などが残り、どれも入館無料・9時〜17時に見学できる

2024年7月から一万円札の顔になった渋沢栄一。財布の中で毎日見ていても、どんな人生を歩んだのかは意外と知られていません。銀行や会社を次々に興した「日本資本主義の父」は、もとをたどれば利根川のほとりで藍玉を商う農家の少年でした。

この記事では、深谷で過ごした若き日から、幕臣、官僚、実業家へと立場を変え続けた91年の生涯を追い、いまも深谷に残るゆかりの地の回り方までを紹介します。

渋沢栄一の生涯の流れ。1840年からは深谷の少年として藍玉の商いと論語の学び、1863年から志士から幕臣へ(攘夷計画を中止、一橋家・パリ万博)、1869年から明治政府の官僚(租税正、富岡製糸場の主任)、1873年から実業家(第一国立銀行、約500社)、1931年まで社会事業(約600)。2024年7月3日に新一万円札の肖像に
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深谷の農家の少年は、どうやって商才を身につけた?

栄一は天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村、いまの深谷市血洗島に生まれました。家は畑作と養蚕に加え、藍染めの染料のもとになる「藍玉」をつくって売る商いをしていました。藍の葉を農家から買い集め、藍玉に加工して信州や上州の紺屋に売り歩く。仕入れの目利きと値段の交渉、帳簿づけを、栄一は十代のうちから父のそばで覚えていきます。

学問の師は、従兄の尾高惇忠でした。のちに富岡製糸場の初代場長となる人物で、栄一は惇忠のもとで『論語』をはじめとする漢籍を学びます。雅号の「青淵(せいえん)」も、生家近くの淵にちなんで惇忠が名付けたものです。

近くの利根川には、中瀬河岸がありました。武蔵国と上野国を結ぶ船着き場として栄え、人や物とともに江戸の文化や経済の情報もいち早く届く場所でした。こうした土地柄が、若い栄一の視野を広げたともいわれます。

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攘夷の志士が、なぜ幕臣になったのか

幕末の空気は、農村の若者も揺さぶりました。文久3年(1863年)、23歳の栄一は惇忠らと、高崎城を乗っ取り横浜の外国商館を焼き討ちする計画を立てます。尾高惇忠の生家の2階には、その計画が話し合われたと伝わる部屋が残っています(非公開)。

計画は、京都から戻った惇忠の弟・長七郎に止められ、中止になりました。追われる身となった栄一は京都へ向かい、翌年、一橋家の家臣・平岡円四郎の推挙で一橋家に仕えます。倒幕を叫んでいた若者が、のちの15代将軍・徳川慶喜の家臣になったのです。

慶応3年(1867年)には、慶喜の弟・徳川昭武に随行してパリ万国博覧会へ。銀行や株式会社、鉄道といった西洋の仕組みを目の当たりにした経験が、その後の人生を決めました。

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どんな会社や事業をつくった?

明治元年(1868年)に帰国すると、静岡で官民合同の商法会所を設立します。翌年には明治政府に招かれて租税正となり、明治3年には富岡製糸場の設置主任も務めました。

明治6年(1873年)、栄一は大蔵省を辞め、日本初の銀行である第一国立銀行の設立に関わります。ここから民間の立場で、製紙、保険、鉄道、紡績、ガスなど、ありとあらゆる分野の会社づくりを手がけていきました。関わった企業は約500社にのぼります。

ふるさととのつながりも深いのが、明治20年(1887年)に設立した日本煉瓦製造です。翌年、深谷の上敷免に工場を建て、つくられたレンガは東京駅や日本銀行などに使われました。JR深谷駅の駅舎が東京駅を模したレンガ風のデザインになっているのも、この縁によるものです。

渋沢栄一が関わった主な会社と事業。企業約500社:第一国立銀行、日本煉瓦製造、富岡製糸場の設置主任、製紙・保険・鉄道など。社会事業約600:養育院(院長50年以上)、商法講習所(現・一橋大)、日本女子大学校、聖路加国際病院・済生会

「論語と算盤」とは何を説いた本?

大正5年(1916年)に出版された『論語と算盤』は、栄一の考えをまとめた談話集です。算盤は商売、論語は道徳のたとえ。もうけることと、正しい道を守ることは両立できるし、両立させなければ富は長続きしない、というのが中心の考え方で、「道徳経済合一説」とも呼ばれます。

栄一は自分の財閥をつくりませんでした。利益は社会に返すべきだと考え、約600もの社会福祉・教育・医療の事業に関わります。身寄りのない人を受け入れる養育院では50年以上院長を務め、商法講習所(いまの一橋大学)の経営を支え、日本女子大学校の創立にも関わりました。

晩年まで続いた社会への目配り

関東大震災(1923年)の後は復興に奔走し、昭和2年(1927年)には、悪化する日米関係を案じた栄一が中心となって、アメリカから贈られた「青い目の人形」約1万3,000体を受け入れました。昭和6年(1931年)11月11日、91歳で亡くなっています。

深谷のゆかりの地はどう回ればいい?

ゆかりの施設は深谷駅の北、利根川寄りの田園地帯に集まっています。駅から歩くには遠いので、車かタクシー、レンタサイクル「フカペダル」を使うのが現実的です。どの施設も入館無料で、開館は9時から17時(中の家と誠之堂・清風亭の入場は16時30分まで)。休みは年末年始(12月29日〜1月3日)のほか、清掃などによる臨時休館があります。深谷駅からの目安は、タクシーで記念館と尾高惇忠生家が約15分、中の家が約20分。誠之堂・清風亭は駅の北約4キロ、車で約10分です。記念館・中の家・尾高惇忠生家には駐車場があります(大型バス可)。

おすすめは、まず渋沢栄一記念館で、栄一の遺墨や資料、写真の展示から生涯の全体像をつかむこと。講義室では渋沢栄一アンドロイドによる講義も行われています(予約制)。そのあと、土間を通路として見学できる尾高惇忠生家、生誕地の中の家へと進む順番です。中の家の主屋は、栄一の妹夫妻が明治28年(1895年)に建てたもので、栄一が帰郷したときに泊まった家です。記念館で年表を頭に入れてから生家を訪ねると、建物の意味がつかみやすくなります。時間があれば、車で足をのばして誠之堂・清風亭へ。誠之堂は栄一の喜寿(77歳)を祝って大正5年に東京・世田谷に建てられた洋館で、平成11年に深谷へ移築されました。日本煉瓦製造のレンガが使われ、国の重要文化財に指定されています。

深谷の渋沢栄一ゆかりの4施設の比較。いずれも入館無料・9時から17時。渋沢栄一記念館と尾高惇忠生家は深谷駅からタクシー約15分、旧渋沢邸中の家は約20分、誠之堂・清風亭は約4キロで車で約10分

出かける前の注意

  • 中の家の主屋は靴を脱いで見学。段差が多く、素足での入場は不可なので靴下を用意
  • 中の家の渋沢栄一アンドロイドは、不具合のため当面休止中(深谷市ホームページ、2026年10月7日更新)。シアターは通常どおり見学可(記念館のアンドロイド講義とは別)
  • 12月22日(火)は中の家の主屋が清掃などで休館(庭は見学可)。2027年1月25日(月)はアンドロイド・シアターが終日休止
  • 記念館のアンドロイド講義は人数にかかわらず予約制。10名以上の団体は各施設とも事前予約が必要
  • 混雑時は主屋内部などに入場制限あり

最新の開館状況は、深谷市の「渋沢栄一記念館関連施設の開館状況のお知らせ」で確認できます。問い合わせは渋沢栄一記念館(048-587-1100)へ。

渋沢栄一 年表
  • 1840年
    血洗島村(深谷市)に生まれる

    家業は畑作・養蚕・藍玉づくり

  • 1863年
    高崎城乗っ取り計画、中止
  • 1864年
    一橋家に仕える
  • 1867年
    パリ万博へ随行
  • 1869年
    明治政府に入り租税正に
  • 1873年
    第一国立銀行の設立に関わる
  • 1887年
    日本煉瓦製造を設立

    翌年、深谷・上敷免に工場

  • 1916年
    『論語と算盤』出版、誠之堂竣工
  • 1931年
    91歳で死去
  • 2024年
    新一万円札の肖像に

    7月3日発行

参考資料

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