誰が言ったか知らないが、訪ねてみれば確かに感じる魅力のご当地をさすらう「埼玉ブルース」。
JR深谷駅前から連綿と続く銅像群に別れを告げて、さらに歩みを進めます。
この地に縁があるという「みかん」と「歌」のゴールデン・タッグを記念した歌碑があると聞いて、
向かったのは、深谷城址公園。
その名前の通りに、ここ一体の侵攻を防ぐべく築かれた深谷城の跡地を生かして、
現在は公園となっている。周辺には、当時を思わせる石垣や塀が復元され、市街地に居ながらにして
昔情緒を感じられるというまさに理想的な観光コースである。
ここ深谷に来て思ったのは、市民の皆さんによるふっかちゃん愛や銅像好きも然ることながら、
何と言ってもお子さんの姿が目立つこと。この公園内にはご家族連れをはじめ、笑い声を上げながら
子供達が元気に走り回っていた。
全国的に少子高齢化が加速している中で、これは非常に珍しい光景。
なんでも、このすぐお隣に位置する深谷小学校はキャリア教育優良学校として
表彰もされたそうで、子育てにはうってつけの界隈なのかも知れない。
住んでいる人が元気な街は、いい街だよね!
「深谷市民の集まる場所には、漏れなく銅像あり」。そんな暴論を裏付けるかのように……
ここにも銅像がハイ、出ましたドン!
大抵どの街にも、いくつかは銅像なんてあるものだが、それにしても
深谷はその臨界点をやすやすと超えている。
かつて「卑猥だ」との理由で銅像に服を着せた自治体があったと聞くものの、
そこは教育に篤く、芸術を解する深谷市民。この寒空の下でも、そんな心配はなさそうだ。
そんな市民憩いの公園を大回りすること、約5分。隣接する富士浅間神社(智形神社)の
参道前に、有名な童謡「みかんの花咲く丘」の誕生を伝える道標がある。
ご存知♪みかんの花が~ではじまるお馴染みの歌詞を手掛けたのは、作詞家の加藤省吾先生。
疎開先として身を寄せていたこの深谷の地で、氏が故郷である静岡を思って作ったという、
なんとも時代を偲ばせる逸話も残っているのだが……
あれ、なんか傾いてね……?
しかも、なんだかやけに控えめな存在感。とは言え、一見剥げがちな塗装をして、
よく言えば年季が入っていると言えなくもない…のか…?
恐る恐るその鳥居をくぐった先には、きちんとした歌碑もある。見よ、この
「みかん」と「歌」という噂のゴールデン・コンビによる産物を!
そう言えば、ここへ送り届けてくれた湘南新宿ラインの車両を彩る二色は、それぞれ
東海道線沿線の茶畑とみかんを表現しているそうな。深谷市の姉妹都市のひとつは
静岡県藤枝市であることだし、この曲にはじまって両県の縁が深いことは間違いないようだ。
そんな数々のゴールデン・コンビを遥かに凌ぐ作詞&作曲者のうち、作詞家を務めた件の加藤省吾先生の
顕彰碑は、そのお隣に。曰く、この曲が「リンゴの唄」と並んで、戦後まだ食うにも困っていた
日本人にとっての希望となったそう。
氏による自叙伝の、これは孫引きだけれど、
「この歌詞を執筆するに当たっては、どうせ一度きりのことだからとやけっぱちに作った」と
言うような、どうにもやさぐれたくだりがある。
その所要時間は、実に数分とも数十分とも。とかく名曲にはありがちなエピソードとは言え、
ここまで広く愛唱され、長年に亘って歌い継がれているも珍しいだろう。
戦後日本の右肩上がりを見守り続けて来たと言っても過言ではない、
まさに国民的ソング。その足跡は、こんな何気ない場所にも。
これは、先程の歌碑の所在地を教える、いわゆる案内板というやつなのだが、
その広報的な役割をして、まさかのこの表情である。
この真顔も二人揃えば、ゴールデン(ry
前述の「誕生の地」を謳った道標を目の当たりにした時にも少々思うところはあったが、
これは塗装が剥げているとか古めかしいだとか、そんなチャチな問題じゃあ断じてねえ……。
こ、好意的に解釈するとしたら、この歌を口ずさむことで、戦後の動乱期をも平常心で乗り切ったという
ことなのだろうか。なかなか味のある絵ではあるものの、より多くの方々に同地を周知して興味を持って
もらうためにも、ここはやはりふっかちゃんのサービス精神を見習って欲しいものである。
そんな真顔の謎に思いを馳せつつ、再び舞い戻って来たのは深谷駅北口。
どうやら、ここに隠されたスゴイ秘密があるらしい。
そうは言っても、周辺を見渡せど、特に変わった様子は見受けられない。
訝しがる視線の先で、げに優しく微笑み掛けてくれるふっかちゃんを見つめていたところ……
!?
突如として、その下からお姿を見せたのは、なんと深谷の生んだ偉人こと
渋澤榮一御大その人であった。
実は、この時計台は、今から遡ること2年前の2010年に、渋澤榮一没後80年を記念して
建立されたもの。モニュメント時計の称号に相応しくからくり式になっていて、定刻になると
童謡「青い眼の人形」の旋律とともに、その貴重なご尊顔を拝むことが出来る。
よく見ると、両手には市松人形と、そのBGMになぞらえた碧眼のアメリカ人形を抱いているのが
お分かり頂けるだろうか?これは戦争色が高まるかつての日米間で、それぞれの人形を贈り合うという
文化的交流の仲介者となった御大の功績を表わしたもの。
それにしても、なんて優しい表情をしているのか。
史実に伝わる抜け目なく辣腕を揮った実業家としての表情とは異なり、
もしかしたら実際は好々爺だったかも知れないと思わせるに足る、
なんとも穏やかな笑顔である。
おまけ;
どうやら深谷駅前のイルミネーションは逸品らしいと聞き、
「それなら渋澤先生の夜の表情も……!」と思い立ったところで、折角なのでそのまま粘ってみたよの図。
暗闇にライトアップが映えて、日中とはまた違った趣きを感じさせてくれる。
特に、この広いおでこの輝きをしては、これは見ようによっては、某ルミナ○エにも
引けをとらない見どころのひとつと言えるかも。
結局は、そうした仲介による働き掛けも空しく、その後に迎えた開戦によって、
辛くも両者は敵対を余儀なくされてしまった。多くの人形が戦火に消えたものの、
残された数百体は、敗戦後の文化的復興に大きく寄与したと言う。
渋澤榮一の蒔いた種は、童謡「みかんの花咲く丘」とともに、私達日本人の平和の礎となってくれている。
【今回取材させて頂いた深谷城址公園】
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