• 浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ Urawa Red Diamonds)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。愛称は「浦和レッズ」。

クラブ概要 anchor.png Edit

  • Jリーグ発足時より参加している10チームの1つ(オリジナル10)。ホームタウンは埼玉県さいたま市旧浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002および駒場スタジアム、練習グラウンドは大原サッカー場が使用されている。Jリーグ開幕時から熱烈なサポーターの支持を受けるチームで、後述するようにJリーグではトップクラスの観客動員・営業収入を誇る。かつてはチームの人気に成績が伴わず、1999年にはJ2降格という屈辱を味わったこともあるが、21世紀に入ってからは潤沢な資金を活かして戦力や環境の整備を図り、数々のタイトルを手にするようになった。
  • 熱狂的ファンが多いとされる理由には諸説あるが、元来浦和市がサッカーの街として知られていたことも起因する。過去には全国規模のサッカー大会で埼玉県師範学校が1度、県立浦和高校が3度、市立浦和高校が4度、浦和西高校が1度、浦和南高校が3度と、合計12回の全国制覇を遂げている。しかし、1980年代からは優勝はおろか県代表として全国大会出場を逃すことも多く、アマチュアの低迷が逆にプロサッカーチームの待望論や熱狂的なファンの獲得にも繋がったといわれる。
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経営母体 anchor.png Edit

  • 来歴
    • 1950年 - 中日本重工業サッカー部(後の三菱重工業サッカー部)創立
    • 1992年 - 4月、株式会社三菱自動車フットボールクラブ設立。
    • 1993年 - 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)発足
    • 1996年 - 2月、クラブ名を現在の「浦和レッドダイヤモンズ」に改名
    • 2005年 - 2月、埼玉スタジアム2002内に本社移転
  • 三菱自動車フットボールクラブは、当初三菱自動車工業の完全出資(100%)子会社として発足したが、以後、地元自治体・企業の資本参加を受け入れている。1996年12月、埼玉県および浦和市(当時)が増資を引き受け(第3セクター化)、2000年12月の増資では地元企業の埼玉縣信用金庫、藤島建設、藤島住宅、エコ計画などが新たな出資者に加わる。地元企業以外では三菱グループ7社とトーシンパートナーズなどが出資している。
  • 現在の出資比率は三菱自工が50.625%で筆頭株主であることに変わりはないが、三菱グループ7社を除くその他の出資者で40%強を占めている。クラブ側は更に自治体、地元企業を対象にした第3者割当増資を希望している。さいたま市などがいち早く引き受けを表明したものの三菱自工が難色を示したたため、2005年末にワーキンググループを設置したが、現在まで大きな進展は報告されていない。
  • レッドダイヤモンズ」の由来は、三菱グループのコーポレートマークである「スリーダイヤモンド」と、イメージカラーの「赤」をベースにしている。ダイヤモンドには最高の輝きと強さ、固い結束力がイメージされており、またレッドにはホームタウンである浦和が舞台の漫画「赤き血のイレブン」のチームカラー、および前身の三菱自工サッカー部のチームカラーと共通する。
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クラブの経営状況 anchor.png Edit

  • 営業収支
    • 営業収入(2006年度実績、70億7,800万円)は、Jリーグ全31クラブの中でトップ。(2位横浜M:約45.6億円、J1平均:約30.2億円)。
      • 内訳は、入場料収入(同年度25億3,100万円)が最も大きな割合を占める。(入場料収入2位新潟:約10億円、J1平均:約6.4億円)。
      • 次点は、広告料収入(同年度22億8,800万円)である(1位横浜M:約25.2億円、2位柏:約25億円)。グッズ販売収入(同年度12億5,300万円)がこれに続き、他クラブを大きく引き離す売上高を記録している。
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背景・分析 anchor.png Edit

  • Jリーグクラブ中トップの営業収益を上げる背景に、以下の点が挙げられる。
    • クラブの観客動員数はJリーグで常に1、2を争っている(2006年度動員数774,749人、Jリーグ史上最高動員記録)。この他に過去8シーズン(1996年〜1999年、2001年〜2003年、2006年)でJリーグの年間最多観客数を記録している。
    • 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%)、割引率10%未満にも関わらず、シーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2,000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
    • サポーター観客のアウェイゲーム動員数が他クラブと比較しても多い。アウェイゲームには首都圏は勿論のこと、広島、福岡、大分などでも大挙して応援することで知られる。これは他クラブにとっても対浦和戦は文字通りドル箱カードであるため、浦和戦のみアウェイの席割を増やしたり、よりキャパシティの大きいスタジアムで開催することが多い。この傾向は海外遠征においても見られ、2007年AFCチャンピオンズリーグのグループステージでは、浦和サポーターの数をシドニー約3000人、上海約2500人、全州約4000人、城南約1000人、エスファハーン約400人と報道されている。
    • グッズ販売収入が好調な背景には、浦和ファンの1人1人が自分達でクラブ運営を支えているという意識が強いことが挙げられる。相当数の浦和サポーターがクラブ関連グッズなどに多額の支出をしており、グッズ直売店であるレッドボルテージは毎ホームゲーム開催日には大変混み合う。同様に埼玉スタジアム浦和駒場スタジアムの店舗にも人だかりが絶えない。
    • このように入場料収入やグッズ販売収入の好調さは、主としてチーム強化の財源となり、優れた環境における選手育成、積極的な戦力補強が可能となり、より魅力的なチームづくりへと繋がる好循環を生み出す。この傾向はJ1復帰翌年の2002年以降に顕著となり、結果として近年は優勝争いに絡む成績を上げており、所属選手から日本代表を輩出するなどしている。
    • 広告料収入の背景には、上述のチーム成績の好調さに加えて、地域に対する様々な還元や貢献活動にクラブが積極的な投資を行っていることが挙げられる。こうした活動はクラブイメージを向上させ、マス媒体への露出機会も近年著しく増やしていることから、出資企業以外の大口スポンサーも途切れていない。
    • 一例として、ユニフォーム・ウェアは過去一貫してプーマ社であったが、2004年よりナイキ社(日本のクラブチームでは東京ヴェルディ、鹿島アントラーズに次いで3チーム目)が独占供給契約を結んでおり、2007年からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている(Jリーグ中過去最高契約額)
    • 広告料収入全体では他のクラブにトップを譲っているが、これには次の事情が関係している。浦和は、2005年に三菱自工とそれまで結んでいた損失補填契約を解除し、また、それに代わる定額支援も受けていない。収入面で親会社に頼らない独立採算運営を行っている。Jリーグやプロ野球を含む一部の日本のプロスポーツでは国税庁が特別にその親会社に対して広告費を全額損失扱い(非課税)とすることを認めているため、親会社から子会社のチームに対して多額の資金提供が行なわれていることが少なくないが、浦和の収入構造は上記のように実質的に市民クラブと変わらなくなっている。しかしながら、金額的には近年は常に上位にあることから、その市場価値が高く評価されていることがわかる。
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地域への貢献 anchor.png Edit

  • 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費20億6,400万円)。2004年には4億5,000万円をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・養護学校・ろう学校に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグのさいたまレイナスFCを統合し、浦和レッズレディースを設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
  • 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一や土橋正樹ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園、小学校などを巡回している。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
  • Jリーグ百年構想の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地にサッカー場(天然芝2面・人工芝1面)、フットサル場(人工芝8面)、テニス場(全天候型など9面)、野球場(天然芝1面)、ラグビー場(天然芝1面)、サイクリングコース、キャンプ場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランドとして一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館の指定管理者となり、徐々に整備がすすめられるものと思われる。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。
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国際交流 anchor.png Edit

  • Jリーグが理念に掲げる国際交流に関しても積極的に取り組みがなされている。2006年1月、ドイツの名門バイエルン・ミュンヘンとパートナーシップを締結し、同年7月2日、ドイツでバイエルン・ミュンヘン2と練習試合を行ない(バイエルン・ミュンヘン2 2-1 浦和レッズ)、同年7月31日には埼玉スタジアムで両クラブの親善試合を開催した(さいたまシティカップ:浦和レッズ 1-0 バイエルン・ミュンヘン)。このパートナーシップは継続的に協力関係を築いていくことを目的に締結されたため契約期間を特に設定していない。また、親善試合の出場料などを除き契約に伴う金銭のやり取りもない。契約内容には親善試合開催の他にもマーチャンダイジングの相互協力や戦力補強に利用する選手情報の相互提供等が盛り込まれている。Jリーグでヨーロッパの名門クラブと対等提携しているクラブは過去現在他にない。契約調印時にバイエルン社長であるカールハインツ・ルンメニゲはこう語った。「バイエルンは数年来、実力があり、クラブ経営も安定し、心から信頼の置ける、そんなクラブを探していた。今回浦和レッズという素晴らしいクラブとパートナーシップを結ぶことができて目標をようやく果たすことができた」
  • アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」(藤口社長)という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催。予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。
  • 浦和レッズは、2006年に世界のビッグクラブ「トップ10」に選出されている。これはイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによるもので、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリード( スペイン)、チェルシー( イングランド)、ACミラン( イタリア)、ボカ・ジュニアーズ( アルゼンチン)など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い。最高のサポーターを持つことでも知られている」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送されている。
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歴代本拠地 anchor.png Edit

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歴史 anchor.png Edit

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浦和レッドダイヤモンズ発足まで anchor.png Edit

  • 浦和市(当時)側は、当初、日本サッカーリーグの強豪本田技研サッカー部を母体にし、本田技研狭山サッカー部と統合した新チーム作りを構想していた。しかし本田技研本社がJリーグ不参加を表明したために、同リーグ2部の中堅NTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県には日本サッカーリーグに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため川淵三郎に相談したところ三菱自工を紹介された。
  • 三菱自工はサッカー部の活動の中心であり本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(後のベルマーレ平塚、現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。
  • こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した。前述の通り、クラブ名に三菱グループのコーポレートマークであるダイヤモンドを入れ、クラブの運営会社名にも三菱を冠するなど、Jリーグのクラブの中でも比較的地域色を前面に出さず、企業色を強く打ち出す体制であったが、浦和市側は本命と考えていた本田技研に一度、断られているためにJリーグ発足時に浦和市をホームにしてくれるチームの確保が、至上命題であったので譲歩に大きな抵抗がなかった。また、埼玉県旧浦和市高校サッカーこそ強豪地域ではあったが社会人レベルでは前述のチームを除くと全国的に有力なチームがないことを自覚していたためにクラブ名称などについても、天皇杯や日本サッカーリーグなどの優勝経験もある伝統の三菱重工サッカー部のイメージを印象づけることはJリーグ参加へはプラスになると考え、肯定的な意見が多かった。そして1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の1つに選出され、翌年秋のJリーグナビスコ杯に出場し、記念すべきJリーグ公式戦の初陣を大宮公園サッカー場で飾った。
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1992年〜1994年 anchor.png Edit

  • 1992年 - Jリーグ開幕前に開催された最初のナビスコ杯では5勝4敗と勝ち越したが、予選5位となり惜しくも上位4チームによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯も準決勝まで進出し、翌年から開催されるJリーグでは優勝候補と挙げる解説者が現れるほどの期待感を持つようになる。
  • しかし、この時期チームが世代交代期に掛かったが新戦力の補充に手間取り、戦力がどんどん低下してゆく。また、Jリーグ開幕で急激に進化しつつあった日本サッカー界の技術研究や革新にも出遅れる。特に守備面は事実上の壊滅状態であった。1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、ガンバ大阪や名古屋グランパスとともに、「Jリーグのお荷物」などと呼ばれてしまう。サポーターの熱狂的な応援はこの時期から有名で、試合前にサポーターが肩を組んでチームの歌を歌う姿、敗戦を目の当たりにした彼らが激怒する様などもワイドショーなどでよく報道された。また1993年シーズンは、両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:ヴェルディ川崎)の優勝を目の前で決められる屈辱を味わった。
  • 1994年には、ヴェルディでベンチを暖めていた元日本代表の菊原志郎をレンタル移籍で獲得する。このとき菊原は入団会見で「読売と比べればまだまだレベルが低い」と発言しているが、周囲も納得してしまうほど、当時のレッズは低迷していた。
  • 1993年最下位でシーズンを終了し当時の森孝慈監督は「3年間分負けた」と発言した。
  • ちなみに、当時同じく低迷していた日本プロ野球の阪神タイガースと比較され、「Jリーグの阪神」と揶揄されたこともある。2000年代に入り現在は阪神、浦和とも戦力を上げ、両チームとも常に優勝候補と呼ばれており、不思議な因縁がある。
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1995年〜1998年 anchor.png Edit

  • 1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で、チームは躍進を遂げる。前年に入団した元ドイツ代表のDFギド・ブッフバルト(04-06年監督)の活躍によってチームの守備がようやく安定し、1995年の第1ステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
  • その後は中位にとどまることが多くなる。三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。通年シーズンであった1996年は、第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず、雨の中国立競技場を超満員にした第28節の鹿島戦にPK負けを喫したことで望みがなくなり、最終的には6位に終わった。1997年、ブッフバルトが退団・帰国。高額報酬の選手を獲得できない状態だったが、1998年は三菱OBの原博実監督の下、新加入の小野伸二を擁して第2ステージで3位となった。
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1999年〜2000年 anchor.png Edit

  • しかし、1999年には小野伸二や外国人選手の故障、選手補強が引き続き厳しい環境だった経営的要因等のために成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原監督を更迭し(後にFC東京の監督となる)、後任にア・デモスを迎えるが、ついに年間順位で15位となり、J2へ降格した。この時は最終戦で福田正博がVゴールを決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で降格となり「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事は、世間にも衝撃を与え、テレビや新聞、雑誌等でも特集された。また、浦和のJ2降格は翌2000年のJリーグ全体、とりわけJ1リーグ関係の経営収支にも潜在的に悪影響を与えたとも言われている。一方でJ2の試合では多くのレッズサポーターが遠征を行ったことで観客動員数が増加し、各J2クラブに大きな刺激を与えた。
  • 2000年シーズンでJ2の2位となり、J1へ復帰。3位大分との勝ち点差はわずか1点だった。最終節のサガン鳥栖戦の延長前半5分に土橋正樹のVゴールでようやく勝利するという際どさであった。
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2001年 anchor.png Edit

  • 2001年 - それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更。しかしブラジルに強力なコネクションがあるはずもなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノが全く機能せず、結果は失敗に終わる。第1ステージ終了後に小野伸二がオランダのフェイエノールトへ移籍。その後、2000年は札幌に在籍し、2001年に川崎へ移籍したエメルソンを獲得した。10月13日、埼玉スタジアム2002でのこけら落し(横浜F・マリノス戦)に60,553人の観客を集め、リーグ戦初の6万人試合となった。
  • 埼玉スタジアム2002は2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムとの併用の形で正式な本拠地として登録され、現在は観客数の増大に対応するためリーグ戦の殆どの試合で使用されている。なお、これに伴い駒場スタジアムはリーグ戦では年間1〜2試合程度の開催に減少したが、カップ戦などでは現在もメインで使用されている。
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2002年 anchor.png Edit

  • 2002年 - 日本代表や磐田・京都で指揮を執ったハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し、再度ヨーロッパ・サッカー路線へ戻る。第2ステージは第9節まで無敗(8勝1分)で首位に立っていたが、その後6連敗で中位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島アントラーズに敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たし、タイトル獲得への手応えを掴んだ(この試合のチケットが発売開始わずか数十分で完売し、チケットを手に入れられなかったサポーターも多数いた。レッズサポーターの絶対数の多さと優勝に賭ける熱意を世間に知らしめることとなった。この傾向は、レッズが決勝進出した2003年と2004年にも続いた)。苦難の時代のチームを長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
  • この年、森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再スタートし、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。
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2003年 anchor.png Edit

  • 2003年 - 福田正博の引退試合が埼玉スタジアム2002に5万人以上もの観客を集めて行なわれる。11月、再びナビスコ杯の決勝で鹿島アントラーズと対戦。前年は鹿島の前に0-1で涙をのんだが、今回は主力の多くが不在の鹿島を終始圧倒して4-0で圧勝、前年の雪辱を果たして初タイトルを獲得した。この試合では、スタンドの8割を埋めたレッズサポーターによる大掛かりなパフォーマンスが繰り広げられた(選手入場時と後半開始時に、鹿島側ゴール裏を除くスタンドのほとんどを浦和のチームカラーである赤・白・黒のシートで彩った。試合後地元に残ったサポーターに対する「優勝報告会」が駒場で行われた)。なおその直後、J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。
  • 前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。
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2004年 anchor.png Edit

  • 2004年 - オフトに代わってブッフバルトが監督としてチームに復帰し、ヘッドコーチに横浜F、市原、京都の監督を務めたゲルト・エンゲルスを迎える。選手の大幅補強を実施し、ナビスコ杯の連覇は浦和OBの原監督率いるFC東京に阻まれてしまったが、J1リーグ第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、ガンバ大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため、2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝ち点37は、15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝ち点記録であった。
  • 駒場スタジアムで開かれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。また優勝決定直後には浦和駅周辺などで一部の熱狂的サポーターが発煙筒を炊いたり、バイクでパレードをするなど、過熱化した大騒ぎとなったが、幸いにも怪我人や逮捕者は出なかった。
  • 12月5、12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利したが、2試合通算スコアで同点だったためVゴール延長→PK戦の末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦、年間総合成績では初めて1位になった。
  • 入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。
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2005年 anchor.png Edit

  • 2005年 - J1リーグ最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しか出来ず、最下位も経験してスタートダッシュに失敗した。また、開幕直前で山瀬功治が横浜F・マリノスへ移籍、そしてシーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サードへ完全移籍したことや、アルパイの退場劇、主力選手の故障が相次いだことなどから苦戦を強いられていたが、途中からMFポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強し、最終節までもつれた優勝争いを演じた。優勝したガンバ大阪、ジェフ千葉などの上位チームに勝てなかったこともあり、勝ち点59でシーズンを終えたが、ガンバ大阪とはわずか勝ち点差1であった。レッズ以外に3チームが勝ち点59で並んだが、得失点差で結局2年連続の年間2位になった。得点力は、ガンバ大阪に次ぐ65得点、さらに、リハビリから復帰した坪井慶介、2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王、さらに、05シーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍で、リーグ最小失点の37失点と、トラブルが多かったチーム事情を考えれば健闘と言える結果を残した。そして天皇杯では、マリッチが全試合で得点(5試合6得点)をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾った。これにより、2007年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝を果たしている。
  • 2006年シーズンにさきがけ、東京ヴェルディ1969を契約満了となったFWワシントンおよびMF相馬崇人を完全移籍で、セレッソ大阪からFW黒部光昭を2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、さらに小野伸二の復帰と大規模な戦力補強を行った。
  • 2005年2月にはさいたまレイナスFCを統合する形で女子チームを発足させたり、7月には総合スポーツランド・レッズランドを仮オープンさせるなど地域での活動を一気に展開させた年でもあった。また、2005年度から損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消して自立経営が始まったほか、地域との結びつきを強めるための増資計画が公表された(三菱自工が消極姿勢を示したことから実現には至っていない)。
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2006年 anchor.png Edit

  • 2006年 - 2月25日、国立競技場で行われたシーズン最初の公式戦・ゼロックス・スーパーカップでガンバ大阪に3-1で勝ち、浦和レッズとなってはじめて同タイトルを獲得し(旧日本サッカーリーグ時代には、前身の三菱重工時代にスーパーカップ3度優勝している)、幸先のよいスタートを切った。また、2006年J1第2節のジュビロ磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月には、香港におけるフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。
  • 2006年J1第2節で、レッズはJ1(初期のJリーグを含む)主催試合観客動員数500万人を突破した。これはJリーグ加盟31クラブを通しても初めての快挙であり、またJ1在籍年数が1年少ないにもかかわらず、2位の横浜F・マリノス以下を大きく引き離す数字である。またこの年度の観客動員数は774,749人でこの数字もJリーグ歴代最高年間観客動員数である。
  • この年は開幕ダッシュに成功。その後も着実に勝ち点を延ばし、第3節以降は常に3位以内を保ち、さらに第22節から6連勝して第25節に首位を奪い、以降は一度も首位の座を明け渡さなかった。そして12月2日、シーズン最終節を首位で迎えたレッズは、2位のガンバ大阪との直接対決に臨んだ。この試合結果が「勝ち又は引き分け、若しくは得失点差が2点差以内の負け」で優勝という条件の下、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍でこの直接対決を3-2で制し、初のJリーグ年間王者に輝いた(ワシントンはこの2得点で自身初となるJリーグ得点王のタイトルを獲得)。
  • J2降格経験チームのJリーグ年間王者は浦和が初めてである。最終節ではリーグ戦史上最多観客動員となる62,241人を記録した。その最強のサポーターは、選手入場時にバックスタンドに赤・白・黒のシートおよび黄色の風船でクラブのエンブレムを描くという過去に例のない大パフォーマンスを行った。
  • 優勝の原動力となったのは、リーグ最小の28失点(1試合平均約0.82失点=J1リーグ史上最小)に抑えた強固な守備力、浦和レッズ史上3人目の得点王に輝いたワシントン、DFながらFW顔負けの豪快なゴールを何度も記録した闘莉王の得点力、ベンチ入りすら出来ない日本代表経験者がいるほどの圧倒的な選手層、連敗が一度もなく特にホームでは無敗(年間ホーム無敗は史上初/敗戦した次の節は全試合完封勝ち)という記録を作った安定感のある戦いぶりであった。勿論、どのスタジアムでも圧倒的な応援で選手を鼓舞し、ともに戦ったサポーターも強力な後押しとなった。
  • なお、この年のリーグ戦戦績は前半17試合と後半17試合の両方で最多勝点(36)を上げ、04年以前のステージ制と照らし合わせて考えても両ステージを完全優勝となる成績で、安定した戦績を残した。
  • 天皇杯では、ワシントンや闘莉王、アレックス、坪井など主力の多くを途中から欠く陣容となったが、リーグ戦では控えであった小野伸二ら選手達が奮起して勝負強さを随所に発揮し、ジュビロ磐田・鹿島アントラーズというかつての強豪を立て続けに破り、決勝ではほぼベストメンバーで臨んだガンバ大阪を1-0で三たび破り2年連続優勝(Jリーグ開幕後の天皇杯連覇チームは初めて)、リーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成。同時に2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
  • 選手、監督としてレッズの発展に貢献したブッフバルト監督は2006年の天皇杯を最後に退任し、2007年シーズンは国際サッカー連盟の技術部長となっていたオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰した。
  • クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が2006年10月にスタート。優勝が決まる最終戦には、浦和の町じゅうがファンやクラブの手で赤く染め上げられた。また、2002年からのチーム強化、埼玉スタジアムを活用した増員効果から入場料収入は25億3100万円まで増加し、全体収入も70億7800万円と70億円を突破。2006年6月に社長は藤口光紀に交代した。
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2007年 anchor.png Edit

  • 2007年 - 2月13日、オーストリアのザルツブルクで行われたBulls Cupに出場した。これは現地のオーストリア・ブンデスリーガに属するレッドブル・ザルツブルク主催によるイベント色が濃い国際大会であり、ドイツのバイエルン・ミュンヘンも出場した。45分の試合を総当りで3試合行う形式で実施され、浦和レッズはザルツブルクには1-3、バイエルンには0-3と大敗した。この結果によりJリーグのレベルが欧州標準からはかなり劣っているとの指摘を日本国内のみではなく、オーストリアやドイツのメディアからも受けた。また、日本代表のオシム監督からレッズ所属の代表選手に対して、プレー内容の苦言を呈された。 3月3日の開幕戦、前年J2優勝の横浜FCと対戦、苦しみながらも2-1で勝利し、2001年のJ1復帰以降1度も勝っていなかった開幕戦で勝利した。
  • 三連覇を目指した5月のフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会は準々決勝で敗退し、連覇記録は途切れることとなった。
  • 5月23日のAFCチャンピオンズリーグのグループリーグでシドニーFCとホームでの対戦で0-0で引分け、E組のグループ1位となり、同時に出場したF組のグループ1位の川崎フロンターレと共に決勝トーナメントに進出した。
  • 決勝トーナメントでは準々決勝で全北現代と対戦し2戦2勝、準決勝で城南一和と対戦し、2試合とも2-2の後PK戦で勝利、また決勝でセパハンと対戦し1勝1分けで日本のクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制覇した(欧州に倣ってACLの前身アジアクラブ選手権を含めて換算すると、1999年のジュビロ磐田に続き2チーム目となる)。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝したことは大会始まって以来の快挙であった。なお、優勝を決めた11月14日は「埼玉県民の日」であった。
  • この結果、12月7日から始まるFIFAクラブワールドカップにアジア代表として参戦することが決定した。
  • Jリーグでは2位以下に最大勝ち点差10をつけて首位にいたが、ACLセパハン戦後に失速。33節には2位鹿島アントラーズとの直接対決にも敗れ、勝ち点差1の首位で最終戦を迎える。
  • 天皇杯では2日後にJリーグ優勝をかけた最終戦を控え、ワシントン、ポンテ、阿部などをベンチなどにおいて愛媛FCと初戦を戦ったが0-2で敗れ、天皇杯3連覇はなくなった。
  • その2日後の12月1日のJリーグ最終戦対横浜FC戦。最下位の横浜FC相手とあって勝利しリーグ優勝は確実と言われていたが、0-1と敗戦。勝ち点差1の2位につけていた鹿島アントラーズが勝利したため、歴史的な大逆転優勝を許した。連覇を逃し2位で終了した。 FIFAクラブワールドカップ2007では、2007年12月16日のアフリカ代表のエトワール・サヘルとの3位決定戦でPK戦の末に勝利し、ヨーロッパ・南米勢に次いでアジア勢史上初となる世界3位の座に導いた。
  • 12月22日にACL優勝パレードが予定されていたが、Jリーグ連覇を逃したこともあり中止になった。
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2008年 anchor.png Edit

  • 2008年シーズンに向けて、オフにはドイツブンデスリーガフランクフルトの高原直泰、大分トリニータから梅崎司、アルビレックス新潟からエジミウソン、レッドブル・ザルツブルクからアレックスが復帰、と大型補強を敢行し、リーグ奪回へ向け、早くも動いている。また、「ミスターレッズ福田正博がコーチとしてチームに復帰している。
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レッズランド anchor.png Edit

  • 浦和レッズはより地域文化に根ざした総合型スポーツクラブ作りに着手するための一貫として以前から浦和市(現・さいたま市)内に建設する構想を暖めていた。
  • そんななか東京農業大学が、練習場として借用していた桜区の荒川河川敷のグラウンドから撤退することが決まり、それに代わる借主を探していることを聞いて情報収集に努めた結果、構想の実現が可能と判断。2004年3月の開幕前に開かれた「レッズ2004年シーズンを語る会」で「レッズランド計画」が初めて公表された。
  • 目標はスポーツを通しての健全な育成と健康増進で、これまで学校や企業が中心だったそれらの育成に地域コミュニティーが加わって三位一体の運営に取り組む。市民は会員登録(有料。2005年7月現在入会金一律3000円と年会費(一般)8400円)を行えば、優先的に施設を利用できる(会員でない一般市民も利用可だが、割り増しになる)。
  • 施設は2005年7月のオープン時は暫定でサッカーグラウンドと野球場、並びにサッカーとラグビーを併設したグラウンド等が設けられているが、今後はサッカーグラウンド4面、フットサルコート8面、ラグビーグラウンド1面、野球場1面、テニス場11面、レンタルサイクルコース、野外活動拠点としてのキャンプ場などを向こう3年間かけて整備していく予定となっている。また浦和レッズの下部組織の練習拠点としても使用される予定である(トップチームはさいたま市大原サッカー場も併用している)。
  • 2006年1月1日、犬飼代表が「2006年の早い時期に独立させる計画である」と声明を発表している。3月9日より、二次会員の募集を開始、また会員種類に「法人会員」が新たに加わった。
  • 2006年4月1日から、公的施設の管理・運営を民間に委ねる指定管理者制度に基づき、近隣にあるさいたま市浦和西体育館の管理・運営を開始した。
  • 現在は浦和レッズレディースの練習場ともなっている。また、2006年は下部組織の公式戦会場としても多く使用されている。 2006年7月1日より、人工芝サッカー場1面およびフットサルコート4面がオープンした。同時に、金〜日曜日、祝日と祝前日に限り夜間営業も開始している。
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獲得タイトル anchor.png Edit

  • 国内タイトル
    • Jリーグ年間:1回 - 2006年
    • 2ndステージ:1回 - 2004年
    • 天皇杯:2回 - 2005年、2006年
    • リーグカップ:1回 - 2003年
    • スーパーカップ:1回 - 2006年
  • 国際タイトル
    • AFCチャンピオンズリーグ:1回 - 2007年

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最終更新: 2008-08-22 (金) 00:00:10 (JST) (3471d) admin
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